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2004年4月

2004.04.30

割烹着

 明治時代に入り、日本は近代化を進めていきました。家族も変りました。その過程の中で生まれたのが割烹着です。
 
 主婦のしている事は、掃除、洗濯、炊事。これって、女中さんの仕事です。女中さんは、前垂れだけの前掛けをしているので、割烹着とは形が違う。清潔感を表すのに白です。それで、主婦は女中さんと同じ仕事をしているのですが、女中さんとは違いますよと、白の割烹着が作られました。
ですから、白の割烹着は主婦のステータスを表しているのです。

 だから、今、お店で売っている割烹着は白ばかりです。普段家で着物を着ていると、割烹着があると便利なので買いに行きました。白はしみが目立つので使いたくないのですが、白しかありません。当然私の割烹着はしみだらけ。色物のを探そうとすると大変なので、染めてみるか。

ちなみに、家計簿をつけるようになったのもこの時代から。
白い割烹着を着て家計簿をつけるのが、明治時代の新しい主婦です。現代に生きる私は、白い割烹着を着てパソコンで家計簿をつけています。

・・・100年前とナンにも変ってないジャン!!

2004.04.24

素晴らしきインドネシア

 今まで、オランダ時代があって、日本時代があって、日本時代は短かったのですが、産業や経済をガタガタにしました。大陸部の方に鉄道を作るからと、沢山の人を送り、日本敗戦になると、置き去りです。インドネシアの一番痛い時です。

 日本時代に発行になった新聞が縮小版で発売になり、母が買いました。インドネシア語と日本語で書かれていますが、敗戦を迎える年の5月からはインドネシア語だけです。写真から、当時、どのような生活を送っていたか、うかがい知れます。学校では天皇に向って頭を下げ、地域住民は 消火訓練など、日本で行われていた事と同じ事がなされていました。
 ジョグジャカルタの王宮を見学した時に、8代目と9代目のスルタンの使っていた物や写真が展示されていました。オランダ時代の8代目は文化を愛し、日本時代の9代目は外交をしていました。

 その中でも、本当にインドネシアの独立を願い、戦った日本人がいます。日本軍がインドネシアから退いても現地に残り、日本軍が使っていた武器をインドネシア側にこっそり渡したり、再び攻めてきたオランダと戦いました。独立宣言文はスカルノ大統領とハッタ副大統領と西嶋重忠氏が草案を作り、大統領と副大統領が宣言しました。宣言文に 17-8-05の日時が刻まれているのは、軍政下のジャワで使われていた日本の紀元2605年がそのままインドネシア独立宣言に盛り込まれたのです。日本が何をしてきたのかを教え、その上でインドネシアの青年達に日本に対する態度を決めさせました。公用語をインドネシア語にすると最初に宣言したのも、青年達です。
 学校の教科書に「Dokuristujunbiiinkai」と、インドネシア語ではなく、ローマ字で出てくるのだそうです。学校では、日本のして来た事を、ひどかった事、評価できることの両方を教えています。

 民族の数の言語があります。多民族国家では、どの言葉を公用語にするかは、進学や就職等、生活がかかっているので、どの民族の言葉を使うかは死活問題です。これで暴動が起きた国があるくらいです。
 インドネシアでは、民族の言葉ではなく、貿易で使っていたインドネシア語(ムラユ語)を公用語にし、文法の整備をして国語にしました。人口の6割をジャワ人が占めているのにもかかわらず…。
 インドネシアの事を知れば知るほど、好きになっていきます。

2004.04.23

ゴキブリと人間

 北海道は寒いのでゴキブリがいませんが、ビルには住んでいます。
私が勤めていたギャル時代、会社が入っているビルの給湯室にゴキブリがいて、ちょっとした騒ぎになりました(女子職員数人)。

 そのゴキブリの実験。簡単な迷路から抜け出すのに、一匹よりも数匹の方が早く抜け出したんだって。複雑な迷路になると、複数よりも一匹の方が、早く抜け出したって。

単純作業は回りに人がいると効率良く作業が出来、体操とか、1人で人間の限界に挑戦というような高度な業が出来るようになっても、人が見ていると失敗する場合がある。人間もゴキブリとおんなじ。

雪が解けて暖かくなると、早速蟻が活動を始めました。蟻とのお付き合いは何時からなのか分からないくらい、古いのですが、あの時たった一回のゴキブリの方が、親しみを感じるようになったわ。1回きりの出会いだから、「ゴキブリさ―ん」と思うのかもしれない。しょっちゅうの出会いなら、「やだー」になる。

週に1度は、日記帳に書こうとしているのは良いのですが、とうとう話題が見つからずに思いついた、この話し。日記帳の下に「思いつくままに書いてみました」と書いておいて良かったわ。

2004.04.15

新学期

4月に入り、前期が始まったというのに、2ヶ月間の春休みを遊んでいたからでしょうか、頭の切り替えが出来ません。今週になってから、やっとエンジンがかかりました。
 昨年度の後期は、ラジオ授業の「社会調査の基礎」を履修していました。ちょうどその時間のテレビ授業は、「芸術の理論と歴史」。テレビの副音声でラジオ授業が聞けるので、画面では、「修道院の神学者とロマネスク美術」とか「宗教改革とバロック美術」をしているのです。気になってしょうがない。ミケランジェロを見ながら、分からない統計学の話しを聞いているのですから、私は何をしているのカナと思いました。面白そうな科目だから、今期、科目登録をして履修しました。

 建築は権力の象徴。バビロン捕囚の時のネブカデネザル王も王宮を建設しました。現代に入り、イランイラク戦争の時に、この地域の支配者サダム・フセインが、この王宮の再建を命じたそうです。
「ヘー。ネブカデネザルとフセインか…。」
 
 すっごい絵を見せてもらった。ラファエル作「アテネの学堂」。プラトンとアリストテレスが中心にいて、プラトンの先生のソクラテス。快楽主義のエピクロス。イスラム学者のアヴェロエス。ピタゴラスの隣りがヘラクレス。ユークリッドの隣りがプトレマイオス。その横に、この絵を書いたラファエル。
プラトンとアリストテレスが学問の中心なんだって。
「あ、っそう。」

 ところで、この科目、どうやって勉強しようか?

2004.04.11

無縁坂

 友人の引っ越しの手伝いに行くよと声をかけたのはいいのですが、行く時間を聞こうと電話をすると、ぼちぼち始めているとの事。私が首が痛い、膝が痛いといっているので、無理でしょう。友人も、一気に出来ないので、少しづつしているそうです。中年期の現実です。

 数年前、正和が小学校と中学でサッカーを一緒にしていた子の家で引越しがありましたので、手伝いに行きました。久しぶりに会うお母さんと「元気かい?」の挨拶から始まりました。引越しする家のお母さんは病院から退院してきたばかりなので、「あなた、座っていなさい。」と、人の家の押入れを空けて、捨てる物、とっておく物を分けます。「これは?」「死んだ姉の形見。」「じゃ、とっておこう」「これは?」「もう着ないから、あげる。」と、その時にもらったトレーナーを今着ています。
 目と鼻の先に引っ越すので、ワゴン車を出してくれた人がいましたので、何回かに分けて運んでいきますが、最後の食器棚が大きくて車から3分の1位はみ出してしまいました。それを3人で支えて、車に合わせて歩いていきます。車がだんだん早くなって行くのが辛かった。今思い出しても笑えます。

 そのお母さんは昨年、ご主人の7回忌を目前にして亡くなりました。
 これで、40代、50代の女性の葬儀は3回目です。3人とも母子家庭です。ある程度の事情は分かります。今までの人生で、良い時があったのかもしれませんが、あなたの人生、苦労して終りかい。生きていくのって、どうしてこんなに大変なんだろうと思います。
 さだまさしの「無縁坂」を聞いていて、3人のお母さん達の事が思い出されました。

   ♪♪♪
いつかしら僕よりも 母は小さくなった
知らぬまに白い手は とても小さくなった
母はすべてを 暦にきざんで
流してきたんだろう
悲しさや苦しさは きっとあったはずなのに
運がいいとか 悪いとか
人はときどき 口にするけど
そういうことって 確かにあると
あなたを見てて そう思う
忍ぶ 忍ばず 無縁坂 かみしめるような
ささやかな 僕の母の人生

2004.04.09

1年生の思いで(NO.1)

担任の先生から子の1年間子どもたちを写した写真をCD-Rとビデオにしたものが回ってきましたので、発行するつもりがなかった家族新聞を書くことにしました。
1面の記事です。
記事内容が制限を越えてしまいましたので、2回に分けます。

 暉哉が小学生になりました。新しいランドセル、スーツを身に付け、ママとははと一緒に入学式に行きました。
 入学したばかりの時期は、先生の膝の上で授業を受けていたそうです。休み時間も先生から離れなれなかったのですが、すぐにお友達と遊べるようになりました。
 家庭訪問で先生が家に来た時は嬉しくて、先生にベッタリくっついていて、次の子の家に行くのにも、さっさと先生の車の助手席に乗り込んでしまいました。先生大好きの暉哉です。
 チョロチョロしている暉哉は、ママの心配の種です。「先生の話しは聞いていない」という暉哉が「ちゃんとしているよ」と言っています。先生と教室の皆にちゃんと謝ったそうです。
 遠足にはママが作ったお弁当を持って行きます。前の日にママとおやつを買いに行くのも楽しみです。買ったおやつを食べたくてもグッと我慢します。
 2学期の始業式の日は、夏休みに何をしたかを発表しました。暉哉はどこにも行っていないので、ウーーーンと考えていると、先生が、明日ににしようねと言いました。どこかに行ったのは夏休みの前と後なので、発表できなかったのです。
 学習発表会では「じゅげむ」をしました。暉哉は亭主の役です。本当は女房の役をしたかったのですが、できませんでした。秋口に浴衣を持ってきてくださいと言われても、売っていませんので、ママが生地を買ってきて作った浴衣を着ての熱演でした。ママは暉哉に色々な物を作って上げたくて、ミシンを買ったのです。
 百人一首も頑張って覚えました。家中で百人一首を覚えているのは暉哉ただ1人です。児童会館では、親子対決をしました。暉哉はママの膝の上に座っていますから、対決にはなりません。

1年生の思いで(NO.2)

 放課後は、児童会館の子どもクラブに行っています。お友達が沢山いて楽しいです。まじめな年上の子、ちょっと不良がかっている年上の子に可愛がられています。泣く、怒る、笑うと感情がはっきりしているからではないかと、指導員の人が言っていました。夏休みや冬休みにも、お弁当を持って行きますが、春休みは、子どもクラブを休みにして、短い時間児童会館に行っていました。1日中行くのは疲れるのです。暉哉の辛さは、学校から家の前を通って子どもクラブに行く事です。
 保育園では友達の家が遠かったので、遊びに来ることがありませんでしたから、お友達が家に遊びに来るのが嬉しいようです。
 担任の先生が一年間に撮った写真をCD-Rとビデオにしてくれて、ご自由にお使い下さいと貸して下さいましたので、2つともダビングさせてもらいました。

♪ ♪ ♪ ♪ ♪
はじめのころは、わからないことばかり…
ともだちだって、いまよりも すくなかった。
でも 1ねんかん
いっしょに あそんで
いっしょに べんきょうして
もう、じぶんのことは
じぶんで できるようになりました。
けんかも、たまには
いや、ときどき
やっぱり、ちょくちょく したけど
みんな、 みんな
えがおが とびきりすてきな
1ねん3くみの なかまです。
わたしたちは
もうすぐ2ねんせいに なります。(ビデオより)

2004.04.04

箪笥の中身

 着物の整理をしようと思い、箪笥の引き出しをひっくり返しました。何時の時代のものなのか、古い長襦袢が出てきました。
 長襦袢のような下着のような物も出てきました。一時期流行ったのだそうですが、袖を付け替えて使うのだそうです。始めて見た時は「なんじゃ、こりゃ」と思いました。袖だけのがある筈ですが、それが無い。だから使えません。
 足袋もあっちこっちから出てきます。裏がネル地のようになっている物があり、寒い時期に履くと暖かいです。今、この足袋を履いています。
 左右揃っているのですが、良く見ると、ちょっと違うような…、そんな足袋もありました。違う足袋が左右揃ってしまってあるのです。そうすると、もう1組左右別々で揃っている足袋があるはずですが、無い!それでもまた大事にしまいました。

 しおぜの帯や刺し子の帯が1度も使わないまま、着物は仕付けをしたまま、長い眠りについていました。リサイクルのお店で買った着物は、おしゃれ着。もしかしたら、遊ぶ事しか考えていなかったりして…。

帯はこの引き出しの中。付け下げはこっち。小物はそっち。
和箪笥の引き出しの中が随分整理されてきました。
使いやすくなった箪笥の引き出しを出して、明日は何を着ようかと楽しみになります。

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