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2004年9月

2004.09.30

サッカーの思いで

 うちのセガレは、小学校3年から高校卒業するまでサッカーをしていました。小学校では楽しくサッカーをし、中学高校では勝つ為のサッカーをしました。だから今は遊びのサッカーをすると言って、時々しています。友人がスポーツクラブで仕事をはじめたのをきっかけに、スポーツクラブにも通ってトレーニングをしています。

 小学校はサッカー少年団でしたので、私も役員をしていた時期がありました。試合会場の当番校の時には早めに行って準備をし、終わってからの後片付けもします。試合会場が近くの時には自転車で行き、遠い時は親の車に分乗します。シーズンが始まる開会式は全市のサッカー少年団が集まり厚別の競技場でします。芝の上でリフティングの競技をしているのを見ると、わが子が立派に見えます。試合の応援に来ているお母さんたちの挨拶は、「つかれたね」。入院をしていたお母さんには「お勤めご苦労様でした」。毎年夏の合宿がり、腕相撲大会では、勝ち進んでいく子が準決勝で対戦する私の後ろから、「おばさん、負けて…。」と言いますが、私は勝って決勝戦まで行ったね。燃えている時は相手が子供でも手加減しません。楽しい4年間でした。

 中学は部活の先生が全国的に有名な先生でしたので、全国大会に行けました。定年近い先生でしたから、夏に本州に行くのはつかれる、全国大会には行きたくないと言っているその目が輝いています。セガレの在学中から全道大会5連覇を達成しました。
 3年生の時の全国大会の直前、セガレは父親を病気で亡くしました。2日間の葬儀の翌日、全国大会に出発です。こんな事始めてだと、スポーツ新聞に載り、遺族の慰めになりました。多分先生の配慮があったと思います。引率で行ってくださった教頭先生が後で、対戦相手の子と競っても負けてはいなかったと言っていました。父親が入院中は、父母会の会長をしているお母さんが、シーズン中の忙しい時期にもかかわらず、全試合ビデオを届けてくれて、夫はどんなに具合が悪くても、届いたその日に見ていました。全道大会優勝の報告に、メダルを持って病院に行った時は嬉しそうでした。死までのホンの数日間は、お見舞いに来た人にメダルを見せていました。全国大会から帰ってきてから崩れるのではないかと心配していたと、教頭先生は行っていましたが、セガレは崩れることなく、サッカーに支えられて父親の死を乗り越えていきました。チームメートはセガレや私にやさしくしてくれました。

 高校は特待生で入学しました。私立でしたが、授業料がないので、公立よりお金がかかりませんでした。これからチームを作っていくところでしたから、活躍を期待されていたので、大変だったと思います。3年の時に全道大会に行けました。最後の試合の審判が厳しい判定をしたので、負けてしまいました。どんな事があっても審判には服従、不利な状況も自分の方に引っ張っていけるような力が無いと勝ち進んでいけないと、スポーツってこういうものなのだと実感しました。
 セガレがサッカーをしているのですが、その母はルールが分からず、試合中に笛がなると、
「今、どうしたの?」と、隣りのお母さんに聞くと
「分からない」。
そんな私がサッカー部の母をセガレと一緒に卒業しました。


2004.09.24

決断の秋

 私のパソ子さんはトラブルの真っ最中です。事の始まりは、出来る人の真似をしようとしてビデオ編集のソフトをインストールしていると、“容量が足りなくて編集できません”とでたので、途中で止めてしまいました。そうすると、音が出ない、画面の色が変。この度、名刺を作ろうと安いソフトを買ったら、日本語のフォントがゴシックだけになった。
 一度は見てもらったのですが、元に戻せるけど、それだけの事をするだけの価値があるかどうかです。本体だけを新しくしようかどうしようか考えていました。ワードのXPは違うもののようだと聞くし、どこに何があるのか探さなければならないらしいです。
 新しいのを買えば、音は聞けるし、ビデオ編集用のソフトをインストールし、ビデオカメラにメモリーが付いているので、画像が良くないですが、写真も撮れて、パソ子さんに取り込めます。フォントが沢山あると、年に1~2回発行している家族新聞を作れます。このココログはベーシックタイプを使っていて容量は30メガバイトですが、すでに80%を使いました。この際だからココログプラスかココログプロにしようかと考えているのですが、フォントがゴシックだけだとね、面白くない。パソ子さんの本体を新しくすれば、楽しみが沢山出きるのです。
 キリスト教ラジオ放送局の「FEBC」で牧師を取材した番組があります。11月に私が大変お世話になった牧師が出演します。久しぶりに声を聞きたいから、迷っていましたが、新しく買い換える決心がつきました。そして、ココログはプラスかプロにするわ。

2004.09.23

「命の差」と「命の質」

 テルがママから自転車を買ってもらったのが嬉しくて乗っていました。ある日、一緒に遊んでいた男の子が、「テルが自転車で転んで頭から血を出している」と教えてくれました。一緒に走っていくと、道路の向う側ではトラックが止まっていて人だかりです。テルは後頭部から血を出していています。通りかかったトラックの運転手さんが救急車を呼んでくれていました。
 救急車の人から、「N脳神経外科か、近くのK脳神経外科か、どちらにしますか?」と聞かれ、家に帰っても今晩急変するかもしれないし、色々な事が頭の中をめぐり、脳神経外科と神経内科は24時間体制でいるN脳神経外科にしました。ママは後から保険証を持って車で病院に行きました。
 救急車で運ばれて、救急専用出入口から病院に入り処置をしてもらいました。レントゲンを撮っても脳内は無事で、傷口を一針縫って帰って来ました。

 ミンダナオに行ったばかりだったので、考え込んでしまいました。
 日本は制度があるから安い費用で病院に行けます。ミンダナオは制度が無いので全額自己負担です。診療の時に病院に代金を払い、処方箋を持って薬局に行き薬を買います。お金がかかるから病院には行けないのです。医療が受けられるのと受けられないのとでは、命に差が出てきます。テルとテルが出会った沢山の子供たち(小学校にも行きましたので)とでは、命に差が出てくるだけの何かの差があるのでしょうか?私には見つかりません。ただ、住んでいる地域が違うだけです。どうしてこんなに差が出るの?

 どこに住んでいるかで差が出てくるのは現実。では、どうすれば良いか?
 「命の質」を求めていけば良いと思いました。命の質とはその人らしい生き方だと思います。
世界中の大人も子供も、質の高い人生を生きていけられますように。

2004.09.21

豚の丸焼き

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 フィリピンの1番のご馳走は豚の丸焼き。
豚さんが口をあけてこちらを見ているの。目も開いているんですから。生後半年が食べごろだって。
美味しそうだったから、豚さんの顔を見ないで肉を切ったわ。
翌日の朝食は、前日残った豚の肉を煮たものが出ました。こちらの方も美味しかった。

2004.09.20

マンダヤの織物

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 ダバオから船で45分の所にある島に“パールファーム・ビーチ・リゾート”があります。部屋がコテージになっていて海岸線に沿って並んでいます。レストランで食事をし、夕食は男性ギタリスト2人と女性シンガー1人が席を回ってリクエスト曲を歌ってくれます。マンダヤの織物の実演をしていて、向いのお店で販売もしていました。ダバオには民族博物館やマンダヤの織物の実演販売をしている所があるのですが、今回はあきらめていたので、見れて嬉しかった。
 機織の機械は、多分インドネシア・バリのイカットに似ていると思います。一反を織るのに1週間かかるそうです。縦糸で絣(かすり)の模様を出しているようです。そこで、インドネシアを回って織物を見て歩いている友人に、今まで見てきた機織の機械の写真を見せてもらいました。地域によって違います。
 マンダヤを調べてみようとしているのですが、良く分かりません。


2004.09.16

イースタービレッジ訪問/ミンダナオ

「イースタービレッジたより」に投稿しました。

 この際だからと、我が家は家族旅行にしました。息子は仕事が休めなかったので、私、娘の由希子、由希子の息子で暉哉(小二)の人で行く事にしました。写真を見ると、ビレッジの建物の後ろは林になっているようなので、虫取りの為の網と籠を持って行くかどうするかを前日まで話し合っていましたが、荷物になるからやめました。行ってみて分かった事は、そんな物は必要ありません。カミキリムシやアトラスオオカブト、その他沢山の虫やカエルが向うからやってくるのです。カブトムシは苦労をして取りに行くか、買うもの。飛んできたアトラスの角のところを紐で縛って飛ばして遊んでいるのには絶句しました。
 夜の訪問者は虫だけではありませんでした。階段の所に大きなカエルが鎮座しているではありませんか。実に人馴れしたカエル。カエルと見つめ合ってしまったわ。
 滝壷に行くとは聞いていましたから、そこで泳ぐのは受け入れられますが、反対側の崖を上って、平らになっているところから次々に飛びこむのには驚いた。私の生活感覚では、山の中に滝があって、川が流れている所は、鑑賞の対象。風景を楽しむものなのです。
 こんなカルチャーショックは初めて。ひどい混乱。帰ってから気持ちの整理をするのに日にちがかかった事…。
 落成式のある日曜日は、六時から山の方にある村の教会のミサに出ました。二人の洗礼もしました。自由で開放的で、ミサそのものの素晴らしさを感じました。音楽と子供達が遊ぶのに言葉は関係無いのは知っていましたが、ミサもその中に入るわ。
 午後からの落成式。ビレッジを始めてから丸二年。この二年間のビレッジの歩みが凝縮されたような式典でした。男女がいて、年齢の幅が1才のインダイから上は?才(たぶん60代)。複数の民族がいて、信仰は、カトリック、プロテスタント、イスラム。そして大自然が残されているミンダナオ。今まさに「共生の時代」を生きていると思いました。
 あたりが暗くなり、周りが見えなくなるまで、大人も子供も踊り、遊びました。一人一人が尊重され、祐川神父さんやスタッフと良い関りを持っていて、実にのびのびと育っているのが分かる子供たちの踊りでした。遊んでいる時は、渡り廊下のような所で見ている日本人をさそって輪の中に入れてくれます。滞在中は暉哉の面倒をよく見てくれました。ビレッジの子供たちは、気持ちのやさしい子供です。神父さんやスタッフの方たちは、質の高い事をしているのが証明されたと思いました。
 建物は、リビングが充分に広く取ってあります。台所で緩やかに仕切られているので、遊ぶ時は一つの空間として使え、食事の時と、お客さんが来た時の歓迎会や送別会は別々の空間で使い分けが出来ます。人との関りを大切にしているのが良く分かる間取りです。
 翌日は、子供たちと一緒に登校しました。知らない人が、校門から中に入って良いんだって!神父さんが一年生の担任と交渉してくださって、暉哉が一時間教室でお勉強しました。その場で決まったのですよ。朝礼もクラスの子の列に並びました。その暉哉が通っている小学校では、池田小学校の事件があってから、生徒用の玄関には鍵がかかっていて、内側から開けられるのですが、外側から開けられなくなっています。危険度三に指定されている北コトバト州の小学校の方が安心して子供を学校に通わせられます。
 由希子は「動けるようになったら、支える会に入ろうかな」と言い、暉哉はどこに行ってもフィリピンに行った話をしているようです。お友達と遊んでいても、「滝壷に行った事ある人」「ハーイ」と、1人でしています。お友達になるきっかけ作りにと思って、剣玉やこまを持って行きましたが、おもちゃは必要なかった。色々な意味で刺激の多い旅行でした。

2004.09.14

私のおばあちゃん

 「私のおばあちゃんは…」という書き出しでしたら、小学生の作文のような気がします。ですが、私のおばあちゃんは健在です。
 私の祖母は、こどもの頃に両親を亡くし、兄弟の家にいました。お兄さんが理解のある人だったので学校に行けて、ミッションスクールの学校を卒業し、すぐにジャカルタで貿易の仕事をしている祖父に嫁ぎました。祖母は結婚相手の顔を見たのは、結婚式の日でした。そこで10年暮らし、母と叔母が生まれました。戦争が始まるというので、こちらに引き上げてきました。しばらくの間は祖父の姉の家に一家して身を寄せていましたが、1部屋に家族4人は狭くて、開き部屋があるというので引っ越しましたが、物置のような家でした。祖父は病気になり障害が残り働けなくなったので、祖母が働き一家を支えてきました。母と叔母が結婚して家庭を持ち、祖父との二人暮らしが始まりました。祖父は介護が必要になり、祖母が介護をしていましたが、祖父が亡くなったときには、床ずれが出来ていませんでした。これはおばあちゃんの勲章です。
 ジャカルタで暮らしていたことがあったので、インドネシアが大好きです。インドネシア語教室、文化交流会など積極的に参加して友達作りをしてきました。自分で生き甲斐を見つけて支えられています。日本にもインドネシアにもお友達が沢山居ますし、人付き合いもマメです。ですから、インドネシアと聞くとしゃきっとなります。
 90歳近くになった今では、家では歩けますが、外は車椅子が必要です。02年に親族7人でインドネシアに行った時は、祖母の車椅子を皆で押しました。私の車椅子を押してくれる人はいるのかなと思うと、祖母が羨ましくなります。
 前向きで、頼ってくるけど、寄りかかってこないので、付き合っていて楽です。
 祖母のような生き方は良いなあと思います。


2004.09.09

ゆめ

 色々と遠回りをしながらも、夢は現実のものになっています。
早めに結婚したものですから、一人目が生まれ、赤ちゃんを抱いている時に友人は独身で旅行に行ってきた話しをします。それが羨ましくて、私も旅行をしたいな。世界の国々に行ってみたいな。ヨーロッパやアメリカには行きたいとは思わなくて、アフリカは砂漠とサバンナという印象があり、砂まみれになりそうだから、アジアが良いな。アジアの国々に行きたいな。
 それから20年以上たちインドネシアとフィリピンに行ってきました。
 今の私のささやかな夢は、平均寿命まで生きていたとしたら、70才過ぎてから、ラブラブするのです。
 以前テレビで、色々な結婚の形をしていて、老人ホームに入居しているおばあちゃんとおじいちゃんが、いつも仲良くしているから、二人を結婚させようと職員の人たちが話し合い、ホームで結婚式をしました。籍は入っていないそうです。結婚してから二人は同じ部屋でベッドを並べて生活しています。職員は二人が結婚をしてから生活に張りが出てきたといっていました。それ以来の夢です。老夫婦がお散歩をしているところを見ると、いいなぁ、と思います。

 札幌こどもミュージカルにいた頃の娘の夢は、世界の舞台に立つことでしたが、ポーランド公演に行く前にやめてしまいました。最近ミュージカルから、再来年のポーランド公演とバチカンでのコンサートが決まり、団員募集のお手紙が届きました。夢のポーランド。しかも、バチカンでは教皇に歌を聞いていただけるのです。
 娘は、どんな形でも良いから、ポーランドに行きたい。舞台に立たなくても良いから、どんな形でも関り、ポーランドに行きたい。他のことで行くのであれば、意味が無いのです。札幌こどもミュージカルで行く事に意味があるのです。

 さて、私と娘の夢は、どのような形で現実のものになるのでしょう。

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