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2005年3月

2005.03.31

明日から新学期

 2月と3月は放送授業が集中的に放送されます。今回は前期に履修科目全部が放送になるので、今のうちに録音しておくと後が楽だからと思ったのですが、なかなか全部録画出来ませんでした。それでも、三分の二位は録画できたのでこれからが楽なはずです。

 今期は「博物館経営・情報論」「日本文学に見る住まい」「応用音楽学と民族音楽学」「考古学と歴史」。
博物館と住居の科目はこれでおしまい。音楽と歴史と日本文学はこれから始まり。

 ひかりは、ケーブルテレビで視聴しています。主音声でテレビ授業、副音声でラジオ授業ですから、ラジオ授業では画面はテレビ授業です。このちぐはぐになれました。今日録画していると、学位授与式の模様を放送していました。あ―ぁ、私も卒業したくなった。早く卒業したいなと思うのですが、なにせ、履修科目を沢山取れない。

 そんなんで、前期頑張ります。

2005.03.29

迷い道

 祖母の家から持ってきたものがある為に荷物が増え、娘が結婚したために部屋が空いたこともあって、家の片づけをしています。重たい物を動かしていると、体にこたえます。
 少しは家の中がスッキリしてきました。

 茶の間と台所の境目に、マンダヤの織物を掛けておくといいなと思ったら、急にミンダナオに行きたくなってきました。昨年、サマール島のパールファームビーチ・リゾートに行ったとき、ホテルの中にマンダヤの織物の実演販売をしていました。織物の製品はあったのですが、反物(…って言うのかな)は一つしかなく、迷っているときは買わない方針ですので、散々迷って後悔しています。ダバオにも「ダバオエスニカ」という所で実演販売をしているそうです。近くにダバオ博物館があり、小さいけど、先住民族が使っているものを展示しているって。

 娘が行っていた「札幌子供ミュージカル」で来年の4月にポーランド公演とバチカンでのコンサートがあり、ツァーを組むのです。ワルシャワでオペラ劇場でミュージカルの公演とコンサートホールでのオリジナル曲のコンサート。コンサートホールとオペラ劇場とでは造りがぜんぜん違うんだって。バチカンでは教皇に歌を聞いていただけるのです。子供がバチカンに行くのは日本初だって。

 インドネシアにも行きたいし、ミンダナオにも行きたい。ヨーロッパにも・・・。
銭が・・・ジェンコが無いのです。
欲張りしちゃおうかな。

日本からミンダナオに行き、ダバオからシンガポール経由でスマトラ島のメダンに行き、メダンまで行ったらニアス島にも行きたい。ニアス島はスマトラ沖地震の震源地のすぐ隣だから、どうなっているのか・・・。そしてシンガポール経由で帰ってくる。
・・・、そして来年は、ポーランドとバチカン!

方法はただ一つ。節約あるのみ!!稼ぐ方法も考えようか。
人気ブログランキングで常に上位で快進撃を続けている「日々是決算」のブログを見ながら研究を続けているのです。

2005.03.21

「TSUNAMI留学生帰国支援」被災国をもっと知ろう 北海道集会

 3月19日(土)に開催されました集会に参加しました。
パネル展
 バンダアチェの写真が展示してありました。同じ場所での被災前と被災後の航空写真は、家がなくなって茶色になっています。まるで原爆投下後の広島のようでした。民家の屋根の上に乗った船。陸地にはセメント運搬船。津波が襲った後の家の残骸と共に、遺体が無数に・・・。残された人々の悲しみ・・・。モスクでは小学生の勉強会。

航空券贈呈
 TSUNAMIはスマトラ沖地震の津波の被災国から留学している学生を、ボランティア活動のために一時帰国する為の交通費を集めています。今までに13人の留学生が一時帰国しました。航空券が高いので、ガルーダ・インドネシア航空と交渉し、格安で往復できるようになりました。
 今回はバンダ・アチェから北海道大学に留学している男性が1ヶ月間一時帰国します。目的は①政府がしようとしている事と住民の要望との間に格差があるので、それを埋める。
②学校が流されてしまったので、モスクでお勉強会を開いているので、学校を建てるため。
③全部流されてしまい、仕事が無くなったので、新しい仕事を作るため。(例えば、鶏の飼育)

「被災後のアチェ・知らされない事実」 
上記の題で、フリージャーナリストの志葉 玲(しば れい)さんの講演です。
アチェはインドネシアからの独立を目指しているので紛争が続いていて、軍の監視体制が敷かれています。避難所では監視する人がいて、住民はおびえて暮らしていますので、早く元の住んでいた場所に戻りたいと願っています。アチェでは天然ガスが取れるので、採掘しているところでは、守りを目的に軍部が居ます。根拠が無くても政府に反抗していると疑いがかかると、連れて行かれ、皮膚や肉が削げ落ちるほどの暴行や生きたまま焼かれるなどの拷問が、ここで行われています。

 志葉さんが、夫と兄弟一人が根拠の無い疑いをかけられ、軍に誘拐され帰ってこないという女性と出会ったそうです。その女性に、生活が大変だろうからと、お金を渡した男性が連れ去られ、拷問を受け帰ってきた。男性は恐怖心のあまり、家に居られなくて、夜は椰子の木の上に上り体を縛り付けて寝ていた。ある日、強い雨が降り、木の上のほうが倒れ、男性は亡くなったそうです。
 災害が起きてから、多数の外国からジャーナリストが行っていますが、災害の取材ならいいのですが、こと人権に関わったものなら軍部は困るので、監視が厳しいそうです。独立派ゲリラの居る地域で人権で取材しているのが分ると、軍部が連れ去ると国家間の対立になるので、射殺し、ゲリラがしたことにする。これで犠牲になった外国のジャーナリストは2人。だから、志葉さんは、かなり慎重にしていたそうです。
 カンボジアのポルポトと同じ事をしているなと思いました。

 志葉さんが写したビデオと写真を見せてもらいました。
遺体をそのままにしておくのはかわいそうだと、地域の住民が回収作業をしています。腐敗が進み泥まみれになっています。誰かわからないので、そのまま土葬にしていました。半日で25体葬っているそうです。避難所側から、物資はここに置いて下さいと言われたので、毛布を400枚置いたら、200枚しか行き渡っていなかった、と言う例があるため、必要な人に直接渡さなければなりません。被災者に直接渡している日本人のNPO団体の活動の様子も分りました。

 残された人たちは、この津波は神がしたことだと理解しています。軍部によって弾圧され、辛い生活を強いられているので、神様が、もうこれ以上苦しまなくてもいいよ。こっちにおいでと、大きな津波を起こしたと、言っているという事です。

志葉 玲さんのサイト
http://homupage2.nifty.com/rei-repoet/
http://reishiva.exblog.jp/

被災者が語る「津波の脅威」
 バンダアチェの大学で講師をしているシャーリアルさんが、自身で写したビデオを上映しながら、説明をしてくれました。

 まず、津波1時間後の映像です。大きな道路を友人のバイクの後ろに乗って撮影したものです。日本の報道では、津波の被害を重点的に報道されていますが、地震の被害があります。10年前の阪神の地震に津波が押し寄せたような状況でした。地震は、横揺れとドンと下の落ちる揺れとがあったそうです。
 その1週間後の映像では、大きな通りでは、道路沿いと中央のグリーンベルトに沢山の人・・・。インドネシアでは地震があると逃げて、家から離れるように教えられているので、建物から離れた所に居るのです。途方にくれていると言う感じを受けました。
 ほとんどの橋が壊れているので、ドラム缶でいかだを組んで、川の端と端を渡したロープをたぐり寄せながら渡っていました。
 津波で何もかも無くなっている地域でも、モスクだけは残っていました。
 海に発電所があり、その大きな船が陸地にあります。これはそのままにしておいて、モニュメントとして使うそうです。
 報道されているテレビの映像より、もっと悲惨な状況でした。

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2005.03.20

偉大なおばあちゃん

 祖母が亡くなってしばらくしてから、祖母の家にインドネシアのジャワ島にあるボゴールから郵便物が届きました。中は賞状のようですが、英文で書いてあるのは分るのですが、なんて書いてあるのか分りません。そこで、今日、「TSUNAMI」の集会があったので、分る人に見てもらいました。
 ボゴールの農業の大学からのもので、1999年から2005年まで、学生に奨学金を出していたので、そのことについての感謝状だと分りました。下のほうの右側には学長のサインが、左側には担当の先生のサインがあります。
 スマトラ島のメダン市の子供たちに奨学金を出しているのは知っていましたが、ボゴールの学生にまで奨学金を出していたとは知りませんでした。メダンには4人の子に奨学金を出しています。
 ボゴールの大学の先生が、数年ごとに北海道大学に来ます。10年ほど前でしょうか、その先生が北大に来たときに、事務の人から、今、インドネシア語教室をしていると聞き、行ったら、祖母と母に会い、それからつながりが出来ました。そんな事があって、ボゴールの学生に奨学金を出すようになったのかもしれません。

 祖母が、奨学金を出しているのは、日本が悪いことをしたからという思いからです。祖父がジャカルタで輸入品を売るお店をしていて、そこに祖母が嫁いでいきました。ジャカルタで10年過ごし、戦争が始まるからと日本に引き上げてきました。祖父は徴兵され、インドネシア語が分るのと、地図が読めるからと言う理由で、ジャワ島上陸の際は、先頭だったそうです。その罪滅ぼしからしていた事ですが、驚きました。

 祖母はインドネシアを生きる支えにしていました。昨年12月に入院したときは、「インドネシア語の本を持ってきて」と、私に頼みます。亡くなる直前までインドネシア語の勉強をしていました。

 スマトラ沖地震では、とても心配していました。アチェには若い友達が居ますから。その方、祖母の葬儀の前日にこちらに来ていたので、参列してくださいました。

 祖母が亡くなってから、益々大きな人だったのだと感じます。

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2005.03.16

インドネシア料理

◎オポールアヤム(8~10人分)

材料
鶏肉(もも肉) 800~1000g
ココナッツミルク 1000㏄
パイナップル 四分の一
レモン汁 大匙1
サラダ油 大匙2
調味料:たまねぎ 半分/にんにく 4個/ケミリ 5個(以上ミキサーにかける)
レンクアス 3cm/レモングラス 1本/レモンハーブ 3枚/サラムハーブ 2枚/コリアンダ 小さじ1/胡椒 小さじ1/塩 小さじ2

作り方
1 鶏肉を切って、レモン汁を絞ってまぶします。
2 たまねぎ、にんにくとケミリをミキサーでつぶします。
3 2はなべでいためて、コリアンダも一緒にいためます。
4 1は3に入れて、きつね色になるぐらいまでよくいためて、塩こしょう、レンクアス、レモングラス、レモンハーブもいります。
5 ココナッツミルクを入れて、肉が柔らかくなるまで煮て、パイナップルを入れ、煮込みます。

◎サンバル ゴレン(8~10人分)
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材料
 ブンチス(いんげん) 300g
 えび 250g
 鶉の卵 20個
 ココナッツミルク 400cc
 トマトケチャップ 大さじ1
 サラダ油 大さじ2
調味料
 たまねぎ 半分/にんにく 4個/とうがらし 小さじ1(辛いのが好きな人は多めに)/パプリカ 大さじ3/レンクアス 3cm/サラムハーブ 1枚/塩 小さじ1

作り方
1 インゲンを適当な長さに切っておきます。
2 たまねぎ、にんにくをミキサーでつぶします。
3 フライパンで2と調味料を入れて炒め、ウダンを入れて色が変わるまでよく炒め、インゲンを入れて炒める。
4 3にココナッツミルクを入れて、汁が少なくなるまで煮込みます。

◎アシナン(8~10人分)
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材料
パイナップル 1本
きゅうり 2本
りんご 1個
きゃべつ 半分
にんじん 1本

水 300cc/砂糖 大さじ2/塩 小さじ1/ヴィネガー 大さじ3~4/ピーナッツバター 大さじ3~4

作り方
1 材料を好きな形に切って、大きなボウルに入れます。講習会の日はキャベツ、にんじん、きゅうりは千切りにし、パイナップル、りんごはいちょう切りにしました。
2 なべに水と調味料を入れて煮込みます。
3 汁を1に入れて、出来上がり。

◎ロントン
作り方
1 ご飯をアルミ箔に棒状に包み、1時間ほど煮る。
2 出来上がったものを一口大の輪切りにして器に盛る。

食べ方
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ロントンにオーポールアヤムとサンバルゴレンをかけて食べます。

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2005.03.15

写真のアップ

一眼レフのカメラを使って写真を写しています。
現像するときはCD-Rに書き込んでもらい、それを使っています。
デジカメを欲しいなと思うのですが、写真としてみるなら一眼レフのほうがいいし、一眼レフのデジカメがあるのですが、高くて買えません。

CD-Rにはフイルムの枚数に関係なく5本まで書き込みが出来ますので、3本以上たまったら現像に出しています。

そんなんで、今日、CD-Rが出来上がりましたので、写真をアップしました。ご覧ください。
・料理講習会&里親説明会(カテゴリー:インドネシア)
・札幌雪祭り(カテゴリー:日記・コラム・つぶやき)

脳を鍛えよう

 1月末の試験の結果が届きました。4科目全部合格です。
今まで習得した単位の表を見ると、Aマル~Cまで、取っているので、見ていて飽きません。Cの数がAマルの2倍ありますので、今後はAマルを増やそうと、情報を収集しあの手この手を考えました。

・パソコンで文章を書くよりは、字を書いた方がよい。
・黙読よりは音読。
・一桁の足し算を声を出して読み計算をする。
・皮むき器で野菜の皮をむくよりは、包丁でむく
・指先を使うだけでなく、何かを作るのです。
・その他色々、、、
つまり、ちょっと面倒なことをするのです。上記2つ目と3つ目は1日15分でいいのです。

そして、記憶力をアップするのです。その方法は・・・
お料理にサフランを使うのです。
ご飯を炊くときやカレーライスを作るときのルーにサフランを2~3個入れるだけ。サフラン入り栗おこわっていうのも・・。

効果があるようなので、試してみるわ。

インドネシア料理講習会でもらったレシピを書いたものは、どこにしまったのでしょう。探してもありません。頑張って脳を鍛えようと思いました。

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2005.03.06

料理講習会&里親説明会

インドネシア料理講習会
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 本日のメニューは、ロントン(ご飯を棒状にしてアルミに包み1時間ゆでる)、オーポールアヤム(鶏肉料理)、サンバルゴレン(えび、インゲンの煮物)、アシナン(サラダ)、クルプクウダン。

 4~5人づつのグループに分かれてから、講師による作り方の説明がありました。私はオーポールアヤムを担当しました。レシピを見ながら「えーーと、えーーと」です。レモンハーブとサラムハーブの区別が付かないんですから。それらしいものを適当に入れといたわ。作り方を見ながら作ったのに、なんか変な味。講師に来てもらって味見をしてもらうと、「塩と胡椒が入ってないんででない?」入れてなかった!塩と胡椒で味を調えて、出来上がり。美味しく出来ました。

 輪切りにしたロントンにオーポールアヤムとサンバルゴレンをかけて食べます。インドネシア風どんぶり物です。その上にクルプクウダンを乗せます。サラダは甘すっぱいピーナッツ味。
 隣で作ったものだよと、もって来てくれた人がいて味見をすると、私達の方が美味しいではありませんか!ヤッタね!!とひそかにガッツポーズ。だって、私たち、小母さんグループですもの、年季が入っているわ。若い人たちのグループには負けませんわ。
 その小母さんグループ、作るのに力尽きて、お腹いっぱいになったら、放心状態。腰に来るのよ。

 後片付けをして次のプログラムに入ります。

里親説明会

 ヌサンタラ札幌インドネシア文化交流会では、インドネシアの子供たちに奨学金を出しています。在日インドネシア留学生協会北海道支部代表(留学生)、ヌサンタラ札幌インドネシア文化交流会代表(留学生)、事務局(日本人)の挨拶に始まり、奨学金制度の説明がありました。

次は、竹で出来た民族楽器アンクルンの演奏です。3曲し、アンコール1曲をしました。アンクルンに触ってみたい人はどうやって音を出すか教えてもらっていました。
IND0011

インドネシアは信仰を持っていなければならないので、大多数を占めるイスラム、キリスト教、ヒンズー教の1年間のお祝いの日の説明がありました。

最後は、「TSUNSMI 留学生帰国支援・北海道」からのお知らせです。
スマトラ沖地震による津波での被災地から来ている留学生を一時帰国してボランティア活動をする費用を集めています。今まで全国で9人の留学生が一時帰国しました。日本はインドネシアに緊急援助金を出しましたが、使われていません。支援物資も役人が横領しているようです。このような現状を踏まえて、実際の援助活動と効果的に援助を生かすルートを作ったりしているのです。毎月集会を開いています。

沢山のプログラムを終え、予定より1時間近くオーバーして、4時に里親説明会は終わりました。

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2005.03.05

それぞれの闘病生活:番外編

 6回に分けて書いた闘病生活。色々な話がありますわ。

夫の入院中

※「ここに何か出来ているから見てくれ。」
私は癌が転移して大きくなったのかと思い驚く。
「おとうさん、これ、脈打っているだけ・・・。」

※「あら、○○さん!」
東京のマラソンマンが退職前に、稚内から東京まで走ってきて、途中に立ち寄ってくれたそうです。出会った人たちに書いてもらっていると、サイン帳を出しましたが、夫は握力が無く書けなかったので、代わりに私が書きました。
マラソンマンは退職後に走っていたときの事を自費出版をしました。

祖母と浜松に行ったときのこと。

祖母の孫(私の従兄弟)の奥さんのお母さんが駆けつけてくれました。従兄弟の家に入るときに祖母は杖を付いているので、床が汚れると、入るのをためらっていると、お母さんが
「大丈夫ですから、どうぞお入りください。」
祖母「ここは、あんたのうちじゃない。」
ツボに入った!

ヘルパーさんに頼むこと

※(祖母から見ると)孫と次女と交代で祖母の付き添いをしたのですが、体力的にきついものがあり、長女に頼むと、長女も体力的にきついから、後半はヘルパーさんに頼んだとのこと。孫と交代することにして、ヘルパーさんへはキャンセルしました。

※冠婚葬祭互助会の葬儀会場に祖母の遺体を安置しました。線香やろうそくを使っているから、誰かが居て欲しいとの事。次女も孫もくたびれているから、長女に頼むと、出来ないからヘルパーさんに頼んだとのこと。会場の人が泊まりでいるので、ろうそくだけ消していれば大丈夫とのこと。ヘルパーさんにキャンセルしてもらい、次女と孫と荷物を運んだひ孫は帰りました。

※葬儀は疲れます。くたびれたから、火葬場は歩けないと、火葬場だけヘルパーさんに車椅子を押してもらっていた長女夫婦。

遺産を巡って

 夫のときは、相続の対象外の人がやんわりと言ってきましたので、やんわりと突き放しました。

 祖母の時は、相続の対象の人が、かなり悪どい事をし、言ってきましたので、もう一人の相続対象の人が、話には乗りませんでした。この先どうなるのか見ものです。

何とか一段落付いたわ。やれやれ・・・。

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それぞれの闘病生活⑥

葬儀後

 葬儀後は、年金、健康保険、名義変更等などの手続きがあります。それがまた大変。行く前に電話して必要な書類を揃えて行くのですが、ケースバイケースですから、それでは書類が足りないのです。一度では済まないんだ、これが・・・。一つ一つがややこしくて・・・。

 夫は在職中の死亡でしたから、会社がしてくれるところが多くて助かりました。祖母の時は叔母がしました。叔母でなくても出来るところは私が手伝います。

 一人暮らしをしていた祖母のマンションを引き払うのに、引越しの手伝いです。叔母は親戚付き合いを受け継ぎ、私はインドネシアを受け継ぎ、娘は日常生活を受け継ぎました。受け継ぐものの量は、欲の量かな?・・・という見方も出来ます。

 祖母の家を片付けていると、色々なものが出てきます。レコードやプレーヤーは無いのに、レコードスプレーがありました。タオルは箪笥の引き出しと衣装ケース一つ分づつありました。子供の頃の記憶にある爪切り。ホントにばあちゃんなんだから。

 戦前は10年くらいジャカルタに住んでいましたから、70年前のジャカルタや、こちらに引き上げてきてからは、米軍キャンプで写した写真から、最近までのものを見ながら、叔母から説明を聞きました。
 いつ、どこで、誰が写っているのか、説明を書いていて欲しかった。

 そんなかんなで、片付けは終わりました。

それぞれの闘病生活⑤

最後のときが近づいて

 主治医から「あと1週間、2週間で急激な変化があります。」と言われてから2週間後に夫は個室に入りました。骨のカルシウムが解けて出てくるための意識障害、モルヒネの副作用、出血等、想像していたあらゆる障害が出てきました。酸素が体に取り込めないための苦しさは、この世のものとは思えない表情になります。
 意識がなくなっても、最後は細胞レベルでの戦いです。がくんと下がった血圧が持ち直したことがありました。

 12月に入院し、1月に入ってから退院した祖母は、おなかの激痛があり再度入院しました。2~3日で急激な変化があり、あと1週間、と言うことでした。連絡を受けて駆けつけたときには、呼びかけると返事をするのですが、会話は出来ませんでした。目がうつろで、どこを見ているのか分らなく、目が覚めているのか、眠っているのか分らなかったのですが、祖母が一番頼りにしている叔母が病院に着くと、目に力が出て、呼びかけに対する反応も違ってきました。
 むくみがひどくなり、足がパンパンになっていたので、「おばあちゃん、足をマッサージするかい?」と聞くと、首を縦に振りましたので、両足のマッサージをしました。これが祖母との最後の会話です。

 夫との最後の会話は何だったかしら?
「やめた、やめた。」
「なにをやめたの?」
「全部やめた」
だったかな?
このときは、ろれつが回らないというような感じで、何を話しているか分らなかったのですが、この時だけは話せました。
その後夫は死を受け入れたようです。

2005.03.02

それぞれの闘病生活④

周りの協力

 90歳の祖母の子供は70代前半と60代半ば。体力的に限界ですので、孫の私が手伝うことになります。その私は車の運転が出来ませんので、荷物を運ぶときなどは娘や息子に頼みます。ですから、祖母はひ孫の世話にもなっているのです。小学2年生のやしゃごはまだ手伝える年齢に達していません。
 叔母は浜松に居ますが、2~3日おきに祖母と電話で話をしているので、祖母の生活を把握しています。遠くに離れていても出来ることはたくさんあり、親子の絆を強くしていけると知りました。祖母の従兄弟の奥さんは、よく気が付く人で、いつもかゆいところに手が届きます。祖母の従兄弟に当たるおじさんは、祖母が一番辛い時期を見てきているので、祖母をとても心配しています。
 祖母はインドネシアが生きがいですので、インドネシアの友達が数人居ます。入院中は日本人も来ますが、インドネシア人とタイ人もお見舞いに来ました。

 夫が入院中は、娘は子供を抱いて毎日病院に通いました。個室に入った1週間は私のお弁当を作って持ってきてくれました。息子はサッカー部に居てレギュラーで活躍していました。父母会の代表をしているお母さんが、全試合のビデオを届けてくださいました。最後1ヶ月間は力を振り絞って見ていたようです。
 職場の方は、支社長が病院に来たときに、提出した診断書に書かれている以外のことを知らせ、職場復帰は出来ないと伝えました。職場の人たちは支社長命令でお見舞いに来てくださいました。中国に転勤になった今でも支社長とは年賀状のやり取りをしています。

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