親戚の人がインドネシアで仕事をしていて、祖父はインドネシアはいいところだよと聞かされていたせいか、若いときにインドネシアに行き、お店を始めました。
戸籍謄本の原本を見ると、「蘭領東印度○○嶋スマラン市プランヒタン街…」から「蘭領東印度○○嶋バタビヤ市クレコット街…」に引っ越したようです。○○嶋は漢字で書かれていて読み取れませんが、ジャワ島です。その祖父と結婚するために祖母はインドネシアに行きました。結婚式のときに始めて相手の顔を見たそうです。母が生まれ、叔母が生まれて、戦争が始まるというので、日本に引き上げてきました。祖母はインドネシアに10年住んでいました。
戦争が始まりすぐに祖父は兵役に付きました。インドネシア語が話せて、地図が読めるので、ジャワ島上陸では最前線に立ったそうです。日本時代は短かったけれども、インドネシアの一番痛い時です。「日本は悪いことをした。それなのに、インドネシアの人たちは日本人によくしてくれる。頭が上がらない」と、生前祖母は言っていました。
その罪滅ぼしのためでしょうか、メダンに里子がいました。その中には大学で日本語を学んだ男の子がいます。入学して3ヵ月後に「おばあさんは親切な人」と筆で書いて祖母のところに送られてきました。それを額に入れて飾っていました。祖母が亡くなってからジャワ島のボゴールにある農業大学から感謝状が郵送されてきました。学長と担当の先生のサインが入っていて、学生に奨学金を出していたようです。
日本に引き上げてからは、そりゃ~、大変な生活をしていました。生活が落ち着いた頃には祖父が病気になり障害が残ってしまい仕事ができなくなったので、祖母が生活を支えていました。祖父が寝たっきりになりになっても、祖母の介護により、亡くなる時には床ずれがありませんでした。
私が臨月のときに祖父が亡くなり、その弾みで出産しましたから、祖父の葬儀には出ていません。四十九日の時には「この子も四十九日かい」。祖母の葬儀の時には「あの時の子かい」と、親戚の方たちから言われています。そうなのです。息子は「あの時の子」なのです。
大正時代に生まれ、激動の昭和を生き抜き、平成時代には、ご飯を食べて「幸せ」。お茶を飲んでは「幸せ」と言っていた祖母。最後の入院となったときまで一人で暮らして、自立し、自分から生きがいを見つけて、社会との関わりを断たなかった祖母。
そんな祖母は私の目標でもあります。
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