2022年12月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
無料ブログはココログ

« 2005年8月 | トップページ | 2005年10月 »

2005年9月

2005.09.30

大海の一滴

マザーテレサの映画を見てきました。主演はオリビア・ハッセー。マザーを演じるのが20年以上の夢だったというだけあり、渾身の演技に、マザーが乗り移ったのではないかと思うくらいのものでした。とにかく、涙、涙。

神の居る所ならどこにでも出かけていく。
こうすると決めたら、てこでも動かない。
困難には立ち向かい、
死んでいく人たちのお世話をしながら、「こころからの笑顔はできない」と悩む。

「私たちの行いは大海の一滴にすぎません。
でも何もしなければその一滴も永遠に失われます。」

私も本当にそう思います。ミンダナオの養護施設イースタービレッジでは、事務の仕事を手伝い、大好きなインドネシアのアチェでは津波の被害。家に眠っているサッカーボールをプレゼントし、25日(日)に「うえるかむはうす」で国際デーで、来ていた神父さんに来年の働く人の家のフェスティバルでアチェの事でお店を出す約束をしたばかりの時に見た映画。できる範囲の事をして行こうと思います。


人気ブログランキング登録中 !! ←ここをクリックして1票をいれてね

2005.09.20

祖母の事

親戚の人がインドネシアで仕事をしていて、祖父はインドネシアはいいところだよと聞かされていたせいか、若いときにインドネシアに行き、お店を始めました。
戸籍謄本の原本を見ると、「蘭領東印度○○嶋スマラン市プランヒタン街…」から「蘭領東印度○○嶋バタビヤ市クレコット街…」に引っ越したようです。○○嶋は漢字で書かれていて読み取れませんが、ジャワ島です。その祖父と結婚するために祖母はインドネシアに行きました。結婚式のときに始めて相手の顔を見たそうです。母が生まれ、叔母が生まれて、戦争が始まるというので、日本に引き上げてきました。祖母はインドネシアに10年住んでいました。

戦争が始まりすぐに祖父は兵役に付きました。インドネシア語が話せて、地図が読めるので、ジャワ島上陸では最前線に立ったそうです。日本時代は短かったけれども、インドネシアの一番痛い時です。「日本は悪いことをした。それなのに、インドネシアの人たちは日本人によくしてくれる。頭が上がらない」と、生前祖母は言っていました。

その罪滅ぼしのためでしょうか、メダンに里子がいました。その中には大学で日本語を学んだ男の子がいます。入学して3ヵ月後に「おばあさんは親切な人」と筆で書いて祖母のところに送られてきました。それを額に入れて飾っていました。祖母が亡くなってからジャワ島のボゴールにある農業大学から感謝状が郵送されてきました。学長と担当の先生のサインが入っていて、学生に奨学金を出していたようです。

日本に引き上げてからは、そりゃ~、大変な生活をしていました。生活が落ち着いた頃には祖父が病気になり障害が残ってしまい仕事ができなくなったので、祖母が生活を支えていました。祖父が寝たっきりになりになっても、祖母の介護により、亡くなる時には床ずれがありませんでした。

私が臨月のときに祖父が亡くなり、その弾みで出産しましたから、祖父の葬儀には出ていません。四十九日の時には「この子も四十九日かい」。祖母の葬儀の時には「あの時の子かい」と、親戚の方たちから言われています。そうなのです。息子は「あの時の子」なのです。

大正時代に生まれ、激動の昭和を生き抜き、平成時代には、ご飯を食べて「幸せ」。お茶を飲んでは「幸せ」と言っていた祖母。最後の入院となったときまで一人で暮らして、自立し、自分から生きがいを見つけて、社会との関わりを断たなかった祖母。
そんな祖母は私の目標でもあります。


人気ブログランキング登録中 !! ←ここをクリックして1票をいれてね

2005.09.16

アチェの子どもにサッカーボールを送ろう!

復興に100年はかかるのではないかと言われているアチェ。
TSUNAMI留学生帰国支援・北海道では、今までインドネシアからの留学生2人が一時帰国し、ボランティアをしながら、日本人が出したお金や物が直接必要な人に届くようにルートを作ってきました。
住む家が無い、学校が無い、仕事が無いアチェですが、子ども達が元気になっていくのを見た大人たちも元気になれるようにと、アチェのこどもたちにサッカーボールを送ろうと企画し、準備を進めています。
プロのサッカーチィームのコンサドーレ札幌が協力をしてくださり、サッカーボールを提供し、家に眠っているボールを寄付してくれるように試合前に呼びかけてくれたり、コンテナにつんで送るのは、協力してくれる企業が現れました。
マスコミに取り上げられて、市役所で記者会見を開いたり、広がりを見せています。

皮のサッカーボールは高価で憧れの的です。我が家にも眠っているボールがありますので、「夢は必ず実現する」と書いて、送ろうかと思います。

2005.09.14

インドネシアの歌

9月24日(土)に、インドネシア・日本文化交流会があります。在日インドネシア留学生協会と、ヌサンタラ札幌インドネシア文化交流会の主催です。大体毎年開催しているのですが、昨年はありませんでしたので、とても楽しみにしています。

皆で歌の練習をしています。インドネシアの歌は、”bujyangan”(独身男性)の曲です。ノリノリの曲です。

*) begini nasib jadi bujangan(独身であるというこの運命)
kemana-mana asalnya suka(好きなところへはどこへでも)
tiada orang yang melarang(止めるものは誰もいない)

(Reff) hati senang walaupun tak punya uang, oo(お金がなくても心は楽しい、おお)

hati senang walaupun tak punya uang

**) apa susahnya hidup bujangan(独身で生きて 何の困難があるのか)
setiap hari hanya bernyanyi(毎日歌うだけさ)
tak pernah hatinya bersedih(悲しい気持ちになんかなったことないさ)

このような意味の曲です。

この曲が聞けるサイトを見つけたと連絡が入りました。真ん中くらいにあります。下のほうには、五木の子守唄があった。ガムランやケチャも聞けます。ケチャは、バリの伝統音楽で、伝統的な音楽が、観光と結びついて発展して行った代表的な例です。

伝統音楽から現代音楽まで、インドネシアの音楽をお楽しみください。

人気ブログランキング登録中 !! ←ここをクリックして1票をいれてね

2005.09.08

決定!インドネシア行き

スマトラ沖地震の津波がおき、甚大な被害を受けたアチェにボランティアに行った留学生の報告会に行ったら、その留学生が9月に帰国が決まったとの事。留学生の奥さんが、「おいで」って言うから、
「行くとこが一つ増えたって喜ぶよ」って言ったら、
「いいよ」。
「12月は?」
「いいよ」
・・・と、そんな訳で、インドネシア行きが急浮上。
友達が会社の休みが取れて、決定しました。

う~っれしいな、
うれしいな。

3年行っていないから、禁断症状が出始めて、辛い日々を送っていたのです。

来年9月にミンダナオに行く予定で、貯めていたお金を使うので、先々が心配になりますが、これからまた貯めるさ。

インドネシアは行くと、生まれ故郷に帰ったような懐かしい気持ちになるので好きです。
その上に、メダンにはインドネシアのお母さんと、お姉さんたちと、子どもがいるのです。
本当の親や子や姉妹でないのですが、実家に帰るような喜びがあります。

これから、詰めの話をしていきます。


人気ブログランキング登録中 !! ←ここをクリックして1票をいれてね

« 2005年8月 | トップページ | 2005年10月 »