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2007.06.12

東南アジアと国家の枠組みが出来るまで

 東南アジア地域は長い間、インドと中国との間にある地域との認識しかされていませんでした。東南アジア地域は、王国があり、近隣の王国同士で戦争をし、勝って勢力を伸ばしたり、負けて小さくなったり、他の王国に移り住んだりしていました。モンゴルも攻めてきましたが、支配するに至りませんでした。この時にはまだ国家の枠組みはありません。
 大航海時代を迎え、次に来たのがヨーロッパ時代です。ヨーロッパ時代にも国家の枠組みはありませんでしたが、宗主国は何処なのかで済んでいました(例えば蘭領ジャワ島)。タイはイギリスとフランスが入ってきましたが、駐留にとどめたので、ヨーロッパ時代を迎えていません。フィリピンはスペイン時代が来て、次に、そのスペインを追い出したアメリカ時代を迎えました。
 第2次世界大戦では、日本時代を迎えました。このときもタイは日本の支配下に置かれませんでした。
 当時の日本には、大東亜共栄圏の構想があり、その中の防衛圏の南の限界がインドネシアまでだといち早く気付いたアメリカは東南アジア地域を研究する「南アジア研究所」をアメリカ国内に設立し、終戦直後に「東南アジア研究所」と名前を変えました。大戦が終わり、東南アジアでは各国で独立を果たしましたが、以前の宗主国がせめて来ました(第1次インドシナ戦争)。フィリピンはもう一度アメリカ時代を迎えました。このときに出来た国家の枠組みは、民族運動が起きたこともありますが、宗主国は何処なのかで決まりました。ベトナム、ラオス、カンボジアはフランスですが、ラオスは、ここで独立しなさいと決められたので、フランス領は3つの国になりました。フィリピンは、ホロ島を中心としたスールー王国が、スペインに対して強く抵抗したので、スペイン時代を迎えませんでしたが、その後、アメリカ時代に支配下に置かれ、フィリピンの国家の枠組みが出来ました。

 東南アジアの枠組みが出来たのは、気候風土や文化の違いがありますが、大東亜共栄圏の構想と、戦後のアメリカの対外戦略です。この中にフィリピンを入れるかどうか最後まで議論されましたが、結局、東南アジアの枠組みに入りました。

 日本で東南アジアと呼ばれるようになったのは、1960年代、地理の教科書に登場してからです。それまでは南方と呼んでいました。

 東南アジアはバルト3国よりも複雑な地域と言われています。
大雑把に東南アジアの歴史をたどってみると、強い力の持った国家に翻弄されている姿が見えてきました。

     ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

参考図書
「東南アジアの歴史」放送大学刊 桜井由躬雄著
「東南アジアを知る事典」平凡社刊 石井米雄他監修

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