学校での罰金
以前、祐川神父さんから言語の説明を受けた事があるのですが、あまりの複雑さに分かりませんでした。ビレッジではセブアノ語を話すのですが、そのセブアノ語は4種類あるそうです。フィリピン政府は公用語政策に失敗しましたねと思いましたが、その後、多少なりとも調べてみると、古代からの歴史に理由があるように感じました。
ミンダナオ島の北部にあるブトゥアンの小学校では、学校でフィリピノ語と英語以外の言葉を使うと罰金1ペソだそうです。サギンエレメンタリースクールも同じようです。
フィリピンの言葉は、ハワイからアフリカ東のマダガスカル島までの広い範囲に分布しているオーストロネシア語族です。
東南アジアのほとんどの国は、古代に民族ごとの王国を作りました。インドネシアなら、バリ島にはバリ人が住んでいてバリ語を話します。アチェ州にはアチェ人が住んでいてアチェ語を話します。地域の言葉は民族の言葉ですから、民族の言葉と国語のインドネシア語を覚えればいいのです。でも、フィリピンはホロ島を中心としたスールー王国とコタバトを中心としたマギンダナオ王国以外には王国を作らなかったのです。ですから、一つの民族であっても、いくつかの地域ごとのまとまりになります。これがフィリピンの言語を複雑にしています。
例えば、ビレッジにマノボ民族の兄弟がいます。マノボは大きく3つに分けて、北マノボ、中部マノボ、南マノボがあり、北マノボと南マノボはそれぞれ3つの言語があり、中部マノボは8つの言語と、マノボだけで細かく分けると14の言語があるようです。(世界民族言語事典MAP14)
スペイン時代では、言語をスペイン語にするのには積極的ではありませんでしたが、それぞれの言葉にスペイン語が入ってきました。アメリカ時代では、沢山の教師を派遣してフィリピンの言葉を英語化しました。
1937年 ケソン大統領、タガログ語を国語として使用すると宣言しましたが、セブアノやイロカノは強い反発をしました。
1959年 文部省は国語の名称をピリピノ語(Pilipino)に改めましたが、反発は和らぎませんでした。
1973年 マルコス政権下の憲法で、フィリピノ語(Filipino)を英語と共に公用語にしました。フィリピノ語は国語としての法的根拠を失いました。
1987年 アキノ政権下で、憲法制定。フィリピノ語と英語が公用語になり、地方では地方言語が補助的公用語に定められました。
1991年 国民統合に向けてフィリピノ語の標準化、普及政策の立案、実行をするために、大統領府にフィリピノ語委員会が設置されました。
学校で、フィリピノ語と英語以外の言葉を使うと罰金を取られる背景が見えてきたように感じました。
<追加>
2012年にフィリピンを訪れた時は、既に罰金はなくなっていました。
<言語や民族についての参考図書>
「世界民族事典」弘文堂 2000年
「世界民族言語地図」 R.E.アシャー、クリストファー・モーズレイ編 東洋書林2000年
「世界の民族」第10巻 平凡社 1978年
「フィリピンの事典」 石井米雄監修 同朋舎出版 1992年
「フィリピン」暮らしがわかるアジア読本 宮本勝・寺田勇文編 明石書店 2001年
「フィリピンの歴史・文化・社会:単一にして多様な国家」
デェイビット・J.スタインバーグ著 明石書店 2000年
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