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2008年3月

2008.03.31

図書館通い

ふと思い立って、家系図を書き、昔をたどっていき、北海道開拓や戦前のジャワ島やミンダナオのことを調べるために図書館通いをしています。

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ここは札幌市中央図書館。右側が図書館で左側には札幌市内から出土した物を展示してある「札幌市埋蔵文化センター」です。何処で何が発掘されているか分ります。詳しく調べたくなったら隣の図書館2階に資料があります。ここでは主に開拓のことを調べています。「南方軍政資料22」がここにあるのですから。北大図書館には検索しても出てこなかった。この本には戦争が終わってからの日本人のジャワ島からの引き上げのことが載っているのです。

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ここが、その北大図書館本館。北分館もあります。北分館の本もここに返せるから助かります。子供向けの本はありませんが、大人向けなら北海道でも有数の蔵書を誇っていますから、たいがいの本はあります。読みたい本が無い時もありますが・・・。

本館には北方関係の貴重な資料もあります。「渡航者名簿」があり、これで外務省まで行かなくて済んだと思ったら、江戸末期から明治にかけてのものでした。残念。

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「大志を抱いて」の碑です。

大志を抱いての北海道開拓はとても大変なものでした。

4月の目標は、北海道開拓の様子を3回に分けてアップすることです。

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2008.03.18

北海道新聞社

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1887年(明治20年)北海新聞が札幌で創業

1942年(昭和17年)国の方針により、北海タイムス、小樽新聞、新函館新聞、旭川タイム、十勝毎日新聞、北見新聞、網走新聞、釧路新聞、根室新聞、苫小牧民報、室蘭民報の北海道の11社が統合され北海道新聞が創刊

1944年(昭和19年)用紙節約で全国紙と共に夕刊休止

1946年(昭和21)夕刊北海タイム発行

1949年(昭和24年)に北海タイムスが誕生したが、1998年(平成10年)に廃刊となりました。

1950年(昭和25年)本社、旭川、釧路で夕刊北海道新聞を発行

1951年(昭和26年)北海道放送(HBC)を設立

道新(どうしん)の愛称で親しまれている北海道新聞。

他紙を購読したこともありますが、道内の記事はやっぱり道新が強いです。

そんな訳で、道新の歴史をチョコッと書いてみました。

明治20年からの新聞が閲覧できます。

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2008.03.16

インドネシア料理講習会

ボトック・アヤム

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材料(8人分):鶏肉(胸) 1kg、レモン 適量、グリーンチリ 6本、

サラムリーフ 6枚、レモングラス 1本、ココナッツスライス 50g、

水 100ml、アルミホイル

調味料:エシャロット 8個、にんにく 3かけ、コリアンダー 小さじ2

胡椒 小さじ1、カンダルナッツ 3個、ターメリック 小さじ半分

砂糖 小さじ1、塩 小さじ2.5

作り方

    鶏肉をレモンとあえて15分くらい置く。

    水で鶏肉を洗い、水分を切る。

    調味料をミキサーにかけて、ココナッツスライスと一緒に鶏肉にあえる。

    ギリーンチリ、レモングラス、サラムリースを鶏肉の上に乗せアルミホイルで包む。

    45分蒸す。

サユル・ロデー

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材料(8人分):いんげん 200g、ヤングコーン 200

なす 3本、プタイ8個、ココナッツパウダー 50

油 適量、水1ℓ、

調味料:さくらえび 10g、エシャロット 5

にんにく 3かけ、チリパウダー 適量

ガランガル 指1本分、塩 適量

コリアンダー 小さじ1

作り方:

    調味料をミキサーにかけた後、香りが出るまで炒めて、サラムリーフと砕いたガランガルを入れて炒める。

    野菜を入れてしんなり(ちょっとやわらかい)するまで炒める。

    ココナッツパウダーを入れる。

コラック

材料(8人分)

バナナ 4本、かぼちゃ 4/1

ココナッツパウダー 50g 黒砂糖 100

バニラパウダー 2g、しょうが 2かけ

水 1.2ℓ&200ml

作り方:

    水を沸かして、つぶしたしょうがを入れる。

    沸騰したら、適当に切ったかぼちゃを入れる。

    かぼちゃがやわらかくなったら、ココナッツパウダーを200ミリリットルの水に溶かして入れる。

    黒砂糖を入れる。

    バナナを適当に切って入れて出来上がり。

この他に、プルク・ウダン(えびせん)とジャワティーがありました。

スマランの紹介

ジャワ島東側にある都市スマラン。スマランから来た留学生で心臓外科のお医者さんがスライドを使って説明してくださいました。

里親会報告

ヌサンタラ・インドネシア文化交流会では、インドネシアの子供達に奨学金を送っています。子供達はインドネシア全土に76人の内訳は、スマトラ島18人、ジャワ島44人、バリ島3人、カリマンタン島4人、スラウエシ島7人。

それに対して里親は36人と1企業です。

子どもたちは元気に学校に通っています。

スマトラ島のピリン舞踏

西スマトラの踊りをパダン出身の来たばかりの留学生が踊りました。この方、日本に来るのが決まってからインドネシアの文化を紹介したいために、練習してきました。その気持ちが嬉しいです。音楽に合わせてみている私達も手拍子をしました。

結婚式などのお祝いのときに踊ります。お祝いの席にお料理がたくさん出て、取り皿があります。その皿を使って踊ったのがピリン舞踏の始まりです。

1分半くらいですがご覧ください。↓

「CIMG1031.AVI」をダウンロード

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ダバオと日本人①

1888年(明治21年) マニラ市に日本領事館が開かれた。

1889年(明治22年) 在留日本人36

1893年(明治26年) 在留日本人6人になったため日本領事館閉鎖

1897年(明治30年) 日清戦争で台湾が日本領になったため日本領事館再開。在留日本人15人。

1898年            フィリピン米領に。日本人2030人。

この頃までに日本人が最も多くフィリピンに渡って行ったのは1573年から1614年、天正年間から慶長の末期までで、一時期マニラには3000人もいたと伝えられていますが、この間に多数の人が渡航したとは考えにくく、1000人程度ではないかというのが古川殖産株式会社の古川氏の見方です。

<アメリカによる開拓>

ダバオ州はスペイン時代にはほとんど開拓されず、1898年米領となりサンボアンガ軍司令官のレオナード・ウッド将軍はダバオ州は肥沃で未開地の多いことを知りダバオ開拓を部下に勧めました。ダバオ湾沿いに約50人が約30箇所に入ってマニラ麻の耕作者になりました。ウッド将軍は1921年から1927年まで幾度となくダバオを訪問し、マニラ麻の直接輸出、ダバオ開港の時期を早めたりとダバオ州発展に尽くしました。米国人は大変な努力をしてきたのですが、報いは小さく終わりました。

<ベンゲット道路工事>

米西戦争の結果、フィリピンは米領となり、熱帯のフィリピンを米国人が治めるのには避暑地が必要と考え、バギオに道路をつけ避暑地を開くことにしました。フィリピン労働者500人、支那人500人、白人200人、で道路工事を始めたのですが、2年間で150万ペソを使っても一向に進まず、工事はもっとも困難な場所に来たため200万ペソの予算でこれに当たることにしました。当時はアメリカ本国では日本移民排斥の声が高かったのですが、工事監督のケノン少佐はカリフォルニアでの日本移民の能力を知っていた為マニラの帝国領事館を通じ、日本移民を入れることにしました。少佐の要望は、道路開設労働者900人、石工100人、監督20人、英語通訳約1人、及びその助手1人の合計1022人でした。

比島政府から移民会社に移民一人当たり拾円の手数料を支給されていたので、争奪戦が起きました。他の移民会社の悪い評判を言ったり、事実以上の誇張したり、実際は竣工が目前に迫っているのに工期はあと一年あると言ったり、移民の質を何も考えないなど、後の責任を持たず唯人数だけを送り込むことをしていました。

渡比した日本人は1903年(明治36年)に男子475人、婦女子446人で婦子軍(からゆきさん)も入っています。1903年当時の移民会社4社の割り当ては1117人でしたが、結局はベンゲット移民として約1500人の日本人が行きました。

日本人は急ながけで崩れやすい最も危険な場所を受け持たされ、衛生設備が充分でなく力量も貧困だった為約700人が短期間に工事の犠牲になったといわれています。

全工事600万ペソを費やし、19051月、ついに道路は完成しました。

<日本人によるダバオ開拓>

太田恭三郎氏は、太田興業株式会社を設立しダバオ開拓の父と呼ばれました。太田氏は1901年(明治34年)26歳で日本を離れ、香港を経て木曜島に入り真珠貝採取事業を始めるが、期待していたほどではなく一端帰国。その後景気がいいと聞いたマニラに渡っていきました。

太田氏はベンゲット工事では御用商人として、たくさんの日本人のために味噌、醤油など日本雑貨を売っていました。ベンゲット工事が終わると移民の仕事がなくなるので、マニラ麻の栽培にあたる人が少なかったダバオに1903年(明治36年)30人、翌年180人、1905年(明治38年)には2回で合計170人をダバオに送り、太田氏も1904年にダバオに留まりマニラ麻の栽培を始め、1905年(明治38年)太田商店を開きましたが、マニラ麻園獲得の必要性に迫られ、バゴボ民族に必需品を売り、彼らから麻園を買い取り経営に当たりましたが土地問題が発生した為、1907年(明治40年)フィリピン法人法に基づき太田興業株式会社を設立し、バゴからミンタルにかけて公有地1010ヘクタールの払い下げを申請し取得して会社の基礎を作りました。先住民族はインタルと呼んでいましたが、太田氏が民多留と改名したので、ミンタルと呼ばれるようになりました。

ダバオ開拓には法人がたくさんの会社を設立しましたが、大きな所は太田興業株式会社と1915年4月ダリアオンに本拠を構えた、古川義三氏が設立した古川拓殖株式会社です。

古川氏は実兄の薦めもあり南洋に興味を持ち、従兄弟に当たる伊藤忠兵衛氏に相談すると、伊藤商店マニラ支店がマニラ麻を取り扱いを始めていたため、この方面を調べて大学卒業後はフィリピン群島に行く決心をし、フィリピン視察旅行をしました。ダバオではタモロの太田興業を尋ね太田氏自らの案内でマニラ麻園と椰子園を見学しました。帰る途中サンボアンガで下船し太田氏経営のオルタンガ島の伐木事業も見てきました。古川氏は小さいながらマニラ麻園の経営の自信をつけ1915年(大正3年)ダリオアンに本拠地を構え古川拓殖会社を設立しました。古川氏は大学卒業してすぐの会社設立だったために開墾の方法が分らず、既墾の耕地を買い、ここから事業を始めましたが、これが後の成功に繋がっていきます。

ダバオのマニラ麻園経営は、麻園から商品を運ぶのに道路建設と管理、邦人のための病院設立、学校設立、売店設置等を会社がしていきました。

保健設備の不完全さから日本人移民の犠牲者がたくさん出ました。主な病気は、マラリヤ、悪性マラリヤ、腸チフス、肺炎、脚気、赤痢、流行性感冒、外傷などでした。第一次世界大戦でのマニラ麻暴騰では、金儲けはダバオでマニラ麻の栽培だと思い込んだ経営者や自営者が無理をしたため、この時期(1917年から1918年)は犠牲者が多く出ました。1920年にはダバオに公立の病院が開かれました。公立病院以外にも、太田興業、古川拓殖も日本人医師とフィリピン人医師を招聘し病院を開設しましたが、その後のマニラ麻暴落により日本人が減少した為病院は規模を縮小しました。2,000人位の日本人が亡くなられたと言われています。

当時ダバオ周辺に住んでいた先住民族との摩擦が起きました。邦人農事会社が公有地の租借を請願し、その土地に住んでいた為の土地問題です。250人くらいの邦人犠牲者がでました。太田恭三氏の麻園買入経営がきっかけになった第一次ダバオ土地問題、古川氏のダバオ進出が動機となった第二次ダバオ土地問題、両社の土地又貸しが原因の第三次ダバオ土地問題、フィリピンの政治問題になり、日比双方に雄大な関心と持った第4次ダバオ土地問題が起こりました。ダバオに住んでいた民族との摩擦だけでなく、邦人の進出を危惧したフィリピン側、宗主国のアメリカ側の意図もあるようです。

マニラ麻園は火が入りやすく、毎年何処かの耕地で火災があり、麻園は火の回りが早く自営者の家まで焼いた例もあります。消火のために灌漑工事をしたり、延焼を防ぐ為に区画を整理し道路を広げたりと対策を講じました。

麻園から商品を運ぶのに道路建設が必要です。主要道路以外は政府関係で開設してくれないので、会社自らの開設になりました。ダバオは雨が多く道路が荒されるので、太田興業では使用者に修理費を徴収し、古川殖産では川から砂利を運んで敷きました。

日本郵船豪州定期航路船は古くからマニラ港に寄っていました。太田氏はダバオに行く日本人移民のために日本郵船と交渉をし、往路だけでもサンボアンガに寄航するようにし太田興業サンボアンガ支店が代理店を勤めることになりました。日本からダバオまでの日数と費用が少なくなりました。

ダバオ港は1907年頃一時開港になりましたが数ヶ月で閉鎖されましたが、1920年代後半から再び開港になり、日本郵船はサンボアンガ寄航をやめダバオに寄航し、古川拓殖とつながりのあった大阪商船が日本とダバオまでの定期航路が開かれて、古川殖産が代理店を勤めることになりました。

第二次世界大戦前の在留日本人は約4万人で、蘭領6,000人、英領マレイ5,000人、泰、仏印、ビルマなどは少数ですが、フィリピンには27,000人在住し、そのうち2万人がダバオに住んでいました。

<参考図書>

「ダバオ開拓記」

 古川義三著 古川殖産株式会社 昭和31年

「移民史Ⅱ アジア・オセアニア編」

今野敏彦・藤崎康夫編著 新泉社 1985年

2008.03.15

ダバオと日本人②

 うっそうと茂るラワンの林。巨木に棚木を作り1本づつ斧で切り倒していきます。直径2メートル以上もあるラワンを地上67メートルの高さに築いた棚を足場に切り倒す作業は数人で一日がかりです。ミシッといい始めてから倒れるまでに10分以上かかり、気の遠くなるような作業です。広く木を切り倒したあとは40日間天日乾燥させて焼き払います。数十人が一列に並んで、風上から一斉に火をつけます。一週間くらいは燃え続け、黒煙で太陽は黄色に鈍ってしまいます。逃げ遅れて焼け死んだ蛇やトカゲを狙ってカラスが集まってきて、空が真っ黒になるほどです。切り株は長い時間をかけて少しづつ取り払っていきます。

 麻株を掘って種株の採集をし、ワランの切り株や大木が横たわっている間に植えて生育させ、1年半から2年で成熟株となりますので、生え際から伐採します。植えられたアバカ(マニラ麻)が収穫されるまで少なく見積もっても3~4年はかかりました。その間収入はありません。麻株の間に陸稲やとうもろこしをまいて飢えをしのいでいました。

 きったアバカは麻挽き小屋に持って行き、麻の茎の皮剥ぎをし、繊維を抽出しますが、原始的な手法をとっていたため、1日働くと翌日は起きられないといわれるほどの重労働でした。水力利用のハゴタンが考案され、大正後期には発動機によるハゴタンが開発され作業は効率よくなりました。倉庫には麻俵が山積みされています。

 開拓は始まる前のダバオの様子をダバオ在留のジャーナリスト蒲原廣二氏はこう描写しています。

「広蓑(こうぼう)十数哩のダバオ平原は恰も眠れるが如く千古の神秘を蔵し、万木鬱蒼として遠くアポの連峰に続き、ダバオ、サランの河は紺碧の色を湛えて悠々千年の姿そのままに流れてくるのであった。河岸に覆い茂るラワンの大樹には野猿の群れが餌を求めて飛び廻り、したには大きな図体の鰐がさも心地良げに背を干しているのであった。海岸には慓唕なモロ族が蟠踞し・・・一歩山に入れば、槍と蛮刀に身を固めたバゴボの酋長が・・・猪や鹿狩りに余念がなかった」。

太田興業では「パキアオ・システム」(請負耕作制度)を採用し、少しの元で資金があり、労働さえいとわなければ自営者への道を歩むことが出来るようになり、日本人移民たちの過酷な労働の励みになりました。

 日本から奥さんを呼び寄せた人が居ました。1918年(大正7年)の在ダバオ日本人女性は200人で、その中には婦子軍(からゆきさん)が70人いますから、嫁様は珍しかったのでしょう。

「『内地から嫁さまが来たぞ』といううわさはたちまち近隣へ広がったもんです。わたしら若い者は日曜日になると3,4人してヒネブラ(サトウキビ焼酎)を持って嫁さまを見に出かけるのが楽しみでした。ただ見物するだけでも心が和んだもんですよ。」

第一次世界大戦時にマニラ麻は高値でしたが、終戦後は暴落し、1922年には最安値になり、日本人移民は帰国していった人が多数いて、8000人を越えていたダバオの日本人は2600人になり、3200人の自営者は815人になりました。

日会(日本人会)本部では1924年(大正13年)4月にダバオ市ボルトン街に日本人小学校を設立。1937年(昭和12年)までにサラン、東サラン、間ナンプラン、トンカラン、ディゴス、場やバス、狩りナン、ダリアオン、カテガン、ワガンと13の小学校が設けられました。

「兄弟3人で月10ペソの月謝を払っていたように思います。その工面が付かなくて親父が隣に借りに行ったのを覚えていますから。でも学校へ行く子供のいない日本人も月10ペソの協力金を払っていたようです。ダバオから神戸までの3等船賃が30ペソの頃ですよ。」と、当時ミンタルの小学区に通っていた人の証言です。学芸会、遠足、日会支部上げての運動会・・・。楽しい行事がありました。朝早く学校に行き、ラジオ体操、君が代斉唱。7時半から11時までが午前授業。昼休みは楽しみのお弁当。嫌いなおかずが入っていた不幸な日は好きなおかずを持ってきている級友とおかずの取替えっこです。

 子供達は大人社会の反映でしたから、2つの差別がありました。日本人男性と現地女性との間に生まれた「あいの子」と半日本人の沖縄人です。当時のダバオは沖縄県人がたくさん移住してきていました。

 1911年(明治44年)には20組の日本人とバゴボ民族との結婚が報告されていますが、日本人開拓者と現地先住民との結婚がどの位あったかは正確には分りません。日本人開拓者は先住民族の生活、信仰を犯したため摩擦が生じ、現地先住民との友好に腐心しました。数名の日本人がダド(酋長)に推挙されたといわれています。

日本人家庭では隣近所が持ち回りで場所を提供して、年末になると餅つきをして新年に備えていました。元旦は正装して食卓につき、一年で一番豪華な食事を楽しみました。でも、楽しい正月は1914年(昭和16年)が最後になりました。12月に日本軍は真珠湾攻撃をし第二次世界大戦が始まったからです。収容所に移された日本人は日本軍によって救出されましたが、過酷な生活だった為激しく疲労していました。

1943年(昭和18年)6月、大本営、政府連絡会議は「比島独立指導要綱」を決定し、「ミンダナオ島に就いては其の軍事的、経済的重要性に鑑み特別の措置をとるところあり」の一項が加えられました。

今まで築き上げていった麻園が日本軍の手に渡り、荒れていくばかりです。麻園はアバカが切り倒され、野菜が作られて、ニューギニアやパラウル等の戦地に送られていきました。レイテ島決戦を前に陸軍最高指揮官からダバオ在留同胞に檄が飛ばされました。その結果現地招集された人も、民間人も山中をさまよい続け家族が離れ離れになりました。終戦直前には陸軍、海軍の連絡は途絶え、食料、弾薬、物資を補給し、各部隊長の責任において自活するよう命令が下されました。どうやって自活していけばいいのでしょう。

終戦を迎え武装解除になってからはフィリピンに残った日本人は、フィリピン人の反日感情を一身に受けました。自分や自分の親が日本人だと分ると殺されてしまうので、証拠となるものは写真一枚も残さず手放しました。それが後日日本人である証明がなく、国籍を回復しずらくなっています。戦時下という特殊な状況を考慮に入れて日本政府が対応していたら、無国籍の人、日本国籍を自らの意思で取らなかった人が少なかったように思います。このような日系人の為の活動は今でも続いています。

フィリピン全国に散らばっている日系人の親、子、孫のために1980年に日系人会がダバオで発足し、同年8月には正式にフィリピン共和国証券取引委員会の認可を受けました。

参考図書・ホームページ

「ダバオ国の末裔たち―フィリピン日系棄民」天野洋一著 風媒社刊 1990

「母と子でみる フィリピン残留日系人」1997

鈴木賢士著 草の根出版会刊 

フィリピン日系人リーガルサポートセンター」ブログ

2008.03.13

昭和16年の新聞

東南アジアがヨーロッパ時代だった頃、まだ国家の枠組みが出来ていなくて、宗主国は何処なのかで言っていました。インドネシアは蘭領東印度です。独立してからインドネシア共和国になりました。今のジャカルタは当時はバタビヤと言っていました。現在のコタ駅のほうです。独立記念塔のある辺りはウエルトフレーデンと言っていたようです。

祖父母一家が帰ってきたと思われる昭和16年の新聞縮小版を見ました。新聞の見出しで「蘭領」と書いてあるのを拾っていきます。引き上げてきた当時の様子が分るのではないかと思ったからです。

朝日新聞を見ていると、ジャワ島やフィリピンからの引き上げ船は神戸港に行っているようなので、大阪毎日新聞も見てみましたら、ありました。

一つの船で200人くらいが乗船していたようです。食事の用意、病人が出たら看護をしたりと、10人、20人くらいの班を作って行動をしていました。船の中で亡くなった方がいて、親族に遺品だけが渡された方がいました。

子供達は日本が始めて。下船のときははしゃいでいて、それを見ていた母親は涙を流していました。

祖父母一家が引き上げてきた時は3人目の子がまだ赤ちゃんだったので、船室だったけれども、船倉だった人が沢山居た。甲板でおしめを洗っていたと祖母が言っていました。

「戦争が始まる」というので引き上げてきたと祖母は言っていましたが、そんな簡単なものではなかったようです。

3人目が生まれた直後に、輸入と輸出の規制が始まり、邦人が経営する商店のほとんどは閉店に追い込まれるであろうという記事。祖父はバタビヤで小売業をしていました。

邦人に対しての資産凍結があり、銀行から預金が引き出せなくなったため、引き上げることも出来なくなり、交渉して緩和され、日本に引き上げるくらいのお金は用立てらるようになりました。

当時の新聞からは戦局が激しくなっていく様子が伝えられています。

「フィリピン、ミンダナオ島のダバオを開拓したのは日本人なのに、フィリピン人はその恩を忘れている」という記事が載っているのを見て、同じ記事を読んでも当時と今とでは受け止め方が違うのだなと感じました。

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