ダバオと日本人①
1888年(明治21年) マニラ市に日本領事館が開かれた。
1889年(明治22年) 在留日本人36人
1893年(明治26年) 在留日本人6人になったため日本領事館閉鎖
1897年(明治30年) 日清戦争で台湾が日本領になったため日本領事館再開。在留日本人15人。
1898年 フィリピン米領に。日本人20~30人。
この頃までに日本人が最も多くフィリピンに渡って行ったのは1573年から1614年、天正年間から慶長の末期までで、一時期マニラには3000人もいたと伝えられていますが、この間に多数の人が渡航したとは考えにくく、1000人程度ではないかというのが古川殖産株式会社の古川氏の見方です。
<アメリカによる開拓>
ダバオ州はスペイン時代にはほとんど開拓されず、1898年米領となりサンボアンガ軍司令官のレオナード・ウッド将軍はダバオ州は肥沃で未開地の多いことを知りダバオ開拓を部下に勧めました。ダバオ湾沿いに約50人が約30箇所に入ってマニラ麻の耕作者になりました。ウッド将軍は1921年から1927年まで幾度となくダバオを訪問し、マニラ麻の直接輸出、ダバオ開港の時期を早めたりとダバオ州発展に尽くしました。米国人は大変な努力をしてきたのですが、報いは小さく終わりました。
<ベンゲット道路工事>
米西戦争の結果、フィリピンは米領となり、熱帯のフィリピンを米国人が治めるのには避暑地が必要と考え、バギオに道路をつけ避暑地を開くことにしました。フィリピン労働者500人、支那人500人、白人200人、で道路工事を始めたのですが、2年間で150万ペソを使っても一向に進まず、工事はもっとも困難な場所に来たため200万ペソの予算でこれに当たることにしました。当時はアメリカ本国では日本移民排斥の声が高かったのですが、工事監督のケノン少佐はカリフォルニアでの日本移民の能力を知っていた為マニラの帝国領事館を通じ、日本移民を入れることにしました。少佐の要望は、道路開設労働者900人、石工100人、監督20人、英語通訳約1人、及びその助手1人の合計1022人でした。
比島政府から移民会社に移民一人当たり拾円の手数料を支給されていたので、争奪戦が起きました。他の移民会社の悪い評判を言ったり、事実以上の誇張したり、実際は竣工が目前に迫っているのに工期はあと一年あると言ったり、移民の質を何も考えないなど、後の責任を持たず唯人数だけを送り込むことをしていました。
渡比した日本人は1903年(明治36年)に男子475人、婦女子446人で婦子軍(からゆきさん)も入っています。1903年当時の移民会社4社の割り当ては1117人でしたが、結局はベンゲット移民として約1500人の日本人が行きました。
日本人は急ながけで崩れやすい最も危険な場所を受け持たされ、衛生設備が充分でなく力量も貧困だった為約700人が短期間に工事の犠牲になったといわれています。
全工事600万ペソを費やし、1905年1月、ついに道路は完成しました。
<日本人によるダバオ開拓>
太田恭三郎氏は、太田興業株式会社を設立しダバオ開拓の父と呼ばれました。太田氏は1901年(明治34年)26歳で日本を離れ、香港を経て木曜島に入り真珠貝採取事業を始めるが、期待していたほどではなく一端帰国。その後景気がいいと聞いたマニラに渡っていきました。
太田氏はベンゲット工事では御用商人として、たくさんの日本人のために味噌、醤油など日本雑貨を売っていました。ベンゲット工事が終わると移民の仕事がなくなるので、マニラ麻の栽培にあたる人が少なかったダバオに1903年(明治36年)30人、翌年180人、1905年(明治38年)には2回で合計170人をダバオに送り、太田氏も1904年にダバオに留まりマニラ麻の栽培を始め、1905年(明治38年)太田商店を開きましたが、マニラ麻園獲得の必要性に迫られ、バゴボ民族に必需品を売り、彼らから麻園を買い取り経営に当たりましたが土地問題が発生した為、1907年(明治40年)フィリピン法人法に基づき太田興業株式会社を設立し、バゴからミンタルにかけて公有地1010ヘクタールの払い下げを申請し取得して会社の基礎を作りました。先住民族はインタルと呼んでいましたが、太田氏が民多留と改名したので、ミンタルと呼ばれるようになりました。
ダバオ開拓には法人がたくさんの会社を設立しましたが、大きな所は太田興業株式会社と1915年4月ダリアオンに本拠を構えた、古川義三氏が設立した古川拓殖株式会社です。
古川氏は実兄の薦めもあり南洋に興味を持ち、従兄弟に当たる伊藤忠兵衛氏に相談すると、伊藤商店マニラ支店がマニラ麻を取り扱いを始めていたため、この方面を調べて大学卒業後はフィリピン群島に行く決心をし、フィリピン視察旅行をしました。ダバオではタモロの太田興業を尋ね太田氏自らの案内でマニラ麻園と椰子園を見学しました。帰る途中サンボアンガで下船し太田氏経営のオルタンガ島の伐木事業も見てきました。古川氏は小さいながらマニラ麻園の経営の自信をつけ1915年(大正3年)ダリオアンに本拠地を構え古川拓殖会社を設立しました。古川氏は大学卒業してすぐの会社設立だったために開墾の方法が分らず、既墾の耕地を買い、ここから事業を始めましたが、これが後の成功に繋がっていきます。
ダバオのマニラ麻園経営は、麻園から商品を運ぶのに道路建設と管理、邦人のための病院設立、学校設立、売店設置等を会社がしていきました。
保健設備の不完全さから日本人移民の犠牲者がたくさん出ました。主な病気は、マラリヤ、悪性マラリヤ、腸チフス、肺炎、脚気、赤痢、流行性感冒、外傷などでした。第一次世界大戦でのマニラ麻暴騰では、金儲けはダバオでマニラ麻の栽培だと思い込んだ経営者や自営者が無理をしたため、この時期(1917年から1918年)は犠牲者が多く出ました。1920年にはダバオに公立の病院が開かれました。公立病院以外にも、太田興業、古川拓殖も日本人医師とフィリピン人医師を招聘し病院を開設しましたが、その後のマニラ麻暴落により日本人が減少した為病院は規模を縮小しました。2,000人位の日本人が亡くなられたと言われています。
当時ダバオ周辺に住んでいた先住民族との摩擦が起きました。邦人農事会社が公有地の租借を請願し、その土地に住んでいた為の土地問題です。250人くらいの邦人犠牲者がでました。太田恭三氏の麻園買入経営がきっかけになった第一次ダバオ土地問題、古川氏のダバオ進出が動機となった第二次ダバオ土地問題、両社の土地又貸しが原因の第三次ダバオ土地問題、フィリピンの政治問題になり、日比双方に雄大な関心と持った第4次ダバオ土地問題が起こりました。ダバオに住んでいた民族との摩擦だけでなく、邦人の進出を危惧したフィリピン側、宗主国のアメリカ側の意図もあるようです。
マニラ麻園は火が入りやすく、毎年何処かの耕地で火災があり、麻園は火の回りが早く自営者の家まで焼いた例もあります。消火のために灌漑工事をしたり、延焼を防ぐ為に区画を整理し道路を広げたりと対策を講じました。
麻園から商品を運ぶのに道路建設が必要です。主要道路以外は政府関係で開設してくれないので、会社自らの開設になりました。ダバオは雨が多く道路が荒されるので、太田興業では使用者に修理費を徴収し、古川殖産では川から砂利を運んで敷きました。
日本郵船豪州定期航路船は古くからマニラ港に寄っていました。太田氏はダバオに行く日本人移民のために日本郵船と交渉をし、往路だけでもサンボアンガに寄航するようにし太田興業サンボアンガ支店が代理店を勤めることになりました。日本からダバオまでの日数と費用が少なくなりました。
ダバオ港は1907年頃一時開港になりましたが数ヶ月で閉鎖されましたが、1920年代後半から再び開港になり、日本郵船はサンボアンガ寄航をやめダバオに寄航し、古川拓殖とつながりのあった大阪商船が日本とダバオまでの定期航路が開かれて、古川殖産が代理店を勤めることになりました。
第二次世界大戦前の在留日本人は約4万人で、蘭領6,000人、英領マレイ5,000人、泰、仏印、ビルマなどは少数ですが、フィリピンには27,000人在住し、そのうち2万人がダバオに住んでいました。
<参考図書>
「ダバオ開拓記」
古川義三著 古川殖産株式会社 昭和31年
「移民史Ⅱ アジア・オセアニア編」
今野敏彦・藤崎康夫編著 新泉社 1985年
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