ダバオと日本人②
うっそうと茂るラワンの林。巨木に棚木を作り1本づつ斧で切り倒していきます。直径2メートル以上もあるラワンを地上6~7メートルの高さに築いた棚を足場に切り倒す作業は数人で一日がかりです。ミシッといい始めてから倒れるまでに10分以上かかり、気の遠くなるような作業です。広く木を切り倒したあとは40日間天日乾燥させて焼き払います。数十人が一列に並んで、風上から一斉に火をつけます。一週間くらいは燃え続け、黒煙で太陽は黄色に鈍ってしまいます。逃げ遅れて焼け死んだ蛇やトカゲを狙ってカラスが集まってきて、空が真っ黒になるほどです。切り株は長い時間をかけて少しづつ取り払っていきます。
麻株を掘って種株の採集をし、ワランの切り株や大木が横たわっている間に植えて生育させ、1年半から2年で成熟株となりますので、生え際から伐採します。植えられたアバカ(マニラ麻)が収穫されるまで少なく見積もっても3~4年はかかりました。その間収入はありません。麻株の間に陸稲やとうもろこしをまいて飢えをしのいでいました。
きったアバカは麻挽き小屋に持って行き、麻の茎の皮剥ぎをし、繊維を抽出しますが、原始的な手法をとっていたため、1日働くと翌日は起きられないといわれるほどの重労働でした。水力利用のハゴタンが考案され、大正後期には発動機によるハゴタンが開発され作業は効率よくなりました。倉庫には麻俵が山積みされています。
開拓は始まる前のダバオの様子をダバオ在留のジャーナリスト蒲原廣二氏はこう描写しています。
「広蓑(こうぼう)十数哩のダバオ平原は恰も眠れるが如く千古の神秘を蔵し、万木鬱蒼として遠くアポの連峰に続き、ダバオ、サランの河は紺碧の色を湛えて悠々千年の姿そのままに流れてくるのであった。河岸に覆い茂るラワンの大樹には野猿の群れが餌を求めて飛び廻り、したには大きな図体の鰐がさも心地良げに背を干しているのであった。海岸には慓唕なモロ族が蟠踞し・・・一歩山に入れば、槍と蛮刀に身を固めたバゴボの酋長が・・・猪や鹿狩りに余念がなかった」。
太田興業では「パキアオ・システム」(請負耕作制度)を採用し、少しの元で資金があり、労働さえいとわなければ自営者への道を歩むことが出来るようになり、日本人移民たちの過酷な労働の励みになりました。
日本から奥さんを呼び寄せた人が居ました。1918年(大正7年)の在ダバオ日本人女性は200人で、その中には婦子軍(からゆきさん)が70人いますから、嫁様は珍しかったのでしょう。
「『内地から嫁さまが来たぞ』といううわさはたちまち近隣へ広がったもんです。わたしら若い者は日曜日になると3,4人してヒネブラ(サトウキビ焼酎)を持って嫁さまを見に出かけるのが楽しみでした。ただ見物するだけでも心が和んだもんですよ。」
第一次世界大戦時にマニラ麻は高値でしたが、終戦後は暴落し、1922年には最安値になり、日本人移民は帰国していった人が多数いて、8000人を越えていたダバオの日本人は2600人になり、3200人の自営者は815人になりました。
日会(日本人会)本部では1924年(大正13年)4月にダバオ市ボルトン街に日本人小学校を設立。1937年(昭和12年)までにサラン、東サラン、間ナンプラン、トンカラン、ディゴス、場やバス、狩りナン、ダリアオン、カテガン、ワガンと13の小学校が設けられました。
「兄弟3人で月10ペソの月謝を払っていたように思います。その工面が付かなくて親父が隣に借りに行ったのを覚えていますから。でも学校へ行く子供のいない日本人も月10ペソの協力金を払っていたようです。ダバオから神戸までの3等船賃が30ペソの頃ですよ。」と、当時ミンタルの小学区に通っていた人の証言です。学芸会、遠足、日会支部上げての運動会・・・。楽しい行事がありました。朝早く学校に行き、ラジオ体操、君が代斉唱。7時半から11時までが午前授業。昼休みは楽しみのお弁当。嫌いなおかずが入っていた不幸な日は好きなおかずを持ってきている級友とおかずの取替えっこです。
子供達は大人社会の反映でしたから、2つの差別がありました。日本人男性と現地女性との間に生まれた「あいの子」と半日本人の沖縄人です。当時のダバオは沖縄県人がたくさん移住してきていました。
1911年(明治44年)には20組の日本人とバゴボ民族との結婚が報告されていますが、日本人開拓者と現地先住民との結婚がどの位あったかは正確には分りません。日本人開拓者は先住民族の生活、信仰を犯したため摩擦が生じ、現地先住民との友好に腐心しました。数名の日本人がダド(酋長)に推挙されたといわれています。
日本人家庭では隣近所が持ち回りで場所を提供して、年末になると餅つきをして新年に備えていました。元旦は正装して食卓につき、一年で一番豪華な食事を楽しみました。でも、楽しい正月は1914年(昭和16年)が最後になりました。12月に日本軍は真珠湾攻撃をし第二次世界大戦が始まったからです。収容所に移された日本人は日本軍によって救出されましたが、過酷な生活だった為激しく疲労していました。
1943年(昭和18年)6月、大本営、政府連絡会議は「比島独立指導要綱」を決定し、「ミンダナオ島に就いては其の軍事的、経済的重要性に鑑み特別の措置をとるところあり」の一項が加えられました。
今まで築き上げていった麻園が日本軍の手に渡り、荒れていくばかりです。麻園はアバカが切り倒され、野菜が作られて、ニューギニアやパラウル等の戦地に送られていきました。レイテ島決戦を前に陸軍最高指揮官からダバオ在留同胞に檄が飛ばされました。その結果現地招集された人も、民間人も山中をさまよい続け家族が離れ離れになりました。終戦直前には陸軍、海軍の連絡は途絶え、食料、弾薬、物資を補給し、各部隊長の責任において自活するよう命令が下されました。どうやって自活していけばいいのでしょう。
終戦を迎え武装解除になってからはフィリピンに残った日本人は、フィリピン人の反日感情を一身に受けました。自分や自分の親が日本人だと分ると殺されてしまうので、証拠となるものは写真一枚も残さず手放しました。それが後日日本人である証明がなく、国籍を回復しずらくなっています。戦時下という特殊な状況を考慮に入れて日本政府が対応していたら、無国籍の人、日本国籍を自らの意思で取らなかった人が少なかったように思います。このような日系人の為の活動は今でも続いています。
フィリピン全国に散らばっている日系人の親、子、孫のために1980年に日系人会がダバオで発足し、同年8月には正式にフィリピン共和国証券取引委員会の認可を受けました。
参考図書・ホームページ
「ダバオ国の末裔たち―フィリピン日系棄民」天野洋一著 風媒社刊 1990年
「母と子でみる フィリピン残留日系人」
鈴木賢士著 草の根出版会刊
「フィリピン日系人リーガルサポートセンター」ブログ
« 昭和16年の新聞 | トップページ | ダバオと日本人① »
「地域社会・歴史」カテゴリの記事
- 永杉豊『ミヤンマー危機』(2021.08.09)
- 道史学習サークル200回記念講演会「北海道150年と私たち」(2018.12.06)
- 東南アジアと国家の枠組みが出来るまで(2007.06.12)
- バランガイ(2007.08.02)
- ダバオと日本人②(2008.03.15)
コメント