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2008年4月

2008.04.27

旅行準備

8月に予定していた旅行が、お目にかかりたい方と私の都合でかなり早くなりましたので、とても慌てています。のんびりしてはいられません。

今回は、ミンダナオ島とジャワ島に行きます。そうしたら、ミンダナオの関係者に問い合わせをすると、皆さんこの時期は日本に帰国予定だそうで。しかも日程は決まっていない。私も日程は決まっていませんので、人の事は言えません。それでも旅行の目的は果たせるので、「雨天決行」ならぬ「お留守決行」にしました。

ミンダナオ島のダバオから飛行機でスラウエシ島のマナドに飛び、ジャカルタに入ろうと思ったのですが、この路線を就航していたインドネシアのボーラック社が倒産したので、マニラからジャカルタに入らなければならなくなりました。

ジャカルタからスマランに行きたいのですが、飛行機で1時間ほど。早朝から夕方まで沢山飛んでいるので、移動には問題ないのですが、スマランは旅行ガイドブックに載っていないんですから。地図もなければ、市内の移動手段も分らない。おまけに私は日本語だけの人。

スマランが一番の難所だわ。

どんな旅行になるのか楽しみです。

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2008.04.25

桜開花

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例年より2週間早く桜が開花しました。

「桜前線待っておくれ。旅行会社が困っている」というような内容の記事が新聞に載っていました。予定より早いと組んだお花見ツァーが成り立ちません。中止したツァーも出てきました。

私は近くの公園にお花見ですから、気楽です。

平日の午後に行きました。

学校が終わった小学生が遊んでいました。

カメラで桜の花を写している人。

老人ホームの入居者が来ています。

職員に車椅子を押してもらってお花見を楽しんでいる人。

ベンチに座っておしゃべりをしている人。

桜の木の下の風景がほのぼのとしています。

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もしも世界が100人の村だったら

もし現在の人類統計比率をきちんと盛り込んで
全世界を100人の村に縮小するとどうなるでしょう

その村には

57人のアジア人
21人のヨーロッパ人
14人の南北アメリカ人
8人のアフリカ人がいます

52人が女性で
48人が男性です

70人が有色人種で
30人が白人

70人がキリスト教以外の人たちで
30人がキリスト教

89人が異性愛者で
11人が同性愛者

6人が全世界の富の59%を所有し
その6人ともがアメリカ国籍

80人は標準以下の居住環境に住み
70人は文字が読めません
50人は栄養失調に苦しみ
1人が瀕死の状態にあり
1人は今生まれようとしています

1人は(そうたった1人)は大学の教育を受け
そして1人だけがコンピューターを所有しています

もしこのように縮小された全体図から 私達の世界を見るなら
相手をあるがままに 受け容れること 自分と違う人を理解すること
そしてそう言う事実を知るための教育がいかに必要かは
火を見るより明らかです

また次のような視点からもじっくり考えて見ましょう

もしあなたが今朝目が覚めた時 病気でなく健康だなと感じることが出来たなら
あなたは今週生き残る事のできないであろう100万人の人たちより 恵まれています

もしあなたが戦いの危険や投獄される孤独や獄門の苦悩
あるいは飢えの悲痛を 一度も経験したことがないのなら
あなたは世界の5億人の人たちより恵まれています

もしあなたがしつこく苦しめられることや逮捕拷問
または死の恐怖を感じることなしに教会のミサに行くことが出来るなら
あなたは世界の30億人の人たちより恵まれています

もし冷蔵庫に食料があり着る服があり 頭の上に屋根があり寝る場所があるなら
あなたは世界の75%の人たちより裕福で恵まれています

もし銀行に預金がありお財布にお金があり
家のどこかに小銭が入った入れ物があるなら
あなたはこの世界の中で最も裕福な上位8%のうちの一人です

もしあなたの両親がともに健在で そして二人がまだ一緒なら
それはとても稀れ なことです

もしこのメッセ-ジを読む事ができるなら あなたはこの瞬間2倍の祝福を受けるでしょう
何故ならあなたの事を思ってこれを伝えている誰かがいて
その上あなた は全く文字の読めない世界中の20億の人々より
ずっと恵まれているからです

昔の人がこう言いました 我が身から出るものはいずれ我が身に戻り来ると

お金に執着することなく喜んで働きましょう
かって一度も傷ついたことがないかのごとく 人を愛しましょう
誰も見ていないかのごとく自由に踊りましょう
誰も聞いてないかのごとくのびやかに歌いましょう
あたかもここが地上の天国であるかのように 生きていきましょう

このメッセ-ジを人に伝えて下さい そしてその人の一日を照らしてください

作者不詳   訳 なかのひろみ

akoさんのサイトから引用しました

2008.04.12

夢の実現に向けて

娘の中学生の頃の夢は二つあり、一つは福祉の仕事をしたいです。

CIDPになり、身体障害があり、実生活でその夢を実現しました。

本人は不本意のようです。

「だから言ったでしょ。夢は実現するの。その形が考えていたのと違うだけ。」

「実生活でなくて、仕事でしたかった・・・」

Cimg1069

もう一つの夢は、音楽で国境を越えて民族間の交流をしたいです。

歌が好きで、中学生の頃はミュージカルをしていました。歌と踊りは以前のようには出来ないし、ピアノも手足に力が入らないので無理だから、キーボードにしようか、ギターにしようか考えた末、ギターにしました。ネットで検索して見つけたのが、この可愛いギター。問い合わせると製造中止になり、いつ入荷になるか分らないとの事。入荷したら連絡をもらうように頼みました。

2歳児を抱えているので、練習時間を見つけるのがこれからの課題です。

そして今週は新車の見積もりに行ってきました。

新車といっても、車いすです。

オーダーだから、一つ一つの部品や色を決めるのに2時間かかりました。フレームの色が決められなくて、次回見本を持ってきてもらうようにしました。車椅子の後ろには杖を取り付けられるように部品をつけます。

新車が届いたら、見せてあげるね。

杖もマネキュアで塗ったりして、可愛くしているから、それも見せてあげる。

誰にって?

このブログを見ているあなたに・・・

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2008.04.05

北海道の開拓①当別町編

<未開の当別町を開拓した伊達邦直>

天保5年(1834年)仙台藩、伊達弾正義監(よしかね)の長男として陸前国岩出山に生まれました。祖父・父と続けて亡くし邦直21歳で家臣総数736人を召抱えていました。

嘉永6年(1853年)ペリー浦賀に来航し鎖国政策は動揺して幕府の勢力は急速に衰退しました。将軍家の上洛に伴い江戸市中の警備を命じられて江戸に滞在した邦直は将軍家との関わりをあまり持たずに中立的な立場を取った方がよいと判断しましたが、幕末の戦乱で朝敵とみなされた伊達邦直討伐の沙汰書が出され、仙台藩は降伏し藩主慶邦は処刑されました。領土・城・屋敷を失い、俸禄は65万石に減らされました。

新政府の2つの方針が出されました。士農工商の身分制度がなくなり、藩士は華族になりますが、それ以外の家臣は帰農を命じられました。仙台藩一門の岩出山の場合、伊達邦直が藩士で、その家中は又家中になりますから、帰農の対象になります。慶応4年、蝦夷地開拓の方針が決定されました。

邦直は旧家臣一同を集めて北海道移住計画を発表し、一同は賛同して邦直に従いましたので、北海道開拓志願書を提出し、太政官から許可が下りたのが明治2年。

明治4年、邦直に率いられた43161人は北海道に渡りました。

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樹齢350年以上といわれている木です。岩出山藩の踏査隊が当別移住に先立ちこの地に到達した折、この近くに露営したといわれています。

「西郷隆盛、枕が要らぬ。いらぬはずだよ、首がない」

開拓2代目に当たる鹿野恵造は、西南戦争についての記憶をこのような端唄を覚えていると語っていました。

<開拓の始め>

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      <伊達家別館>

開拓の経験は何もありませんでした。農地の面積の分割、家屋の構築など、分らないことばかりで、一つ一つが手探りです。

当時、米は函館辺りでしか育ちませんでしたので、とうきび、麦、芋、豆類、粟、いなきびなどを主食としていました。本格的に米の栽培は普及したのは大正2年(1913年)以降です。

太い木がたくさん生えている原始林。昼間でも太陽の光が差し込んでこなくて暗く、笹が生い茂っています。

住む家を建てなければなりません。笹ふき屋根の掘っ立て小屋です。

石狩物揚場(旧八幡町郵便局付近)から当別神社のオンコの根元までの約21kmが当別までの最初の小道です(明治4年開通)。

小道が一本しかなく、険しい坂と湿地で馬が通りません。当別川から石狩川に通じる水路はありますが、流木だらけで舟が通りませんから、冬が来る前に小舟が通れるようにして川面が凍る前に冬季数か月分の米と塩を運ぶことが出来ました。

道作りは邦直率いる第1回移住者の総力を上げた工事になりました。

邦直の弟が馬(道産子)7頭を寄贈しました。

道産子は、徳川中期頃、南部馬を北海道の漁場で使役し、漁期が終わると山へ放置し、雪中の笹などで越年したものを翌年再び捕まえて使役するということを繰り返していくうちに、小型で丈夫で、粗食に耐え、寒さや病気にも強いという特徴を持つようになりました。

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     <現在の石狩川>

石狩川、当別川の大洪水があいつで起こりました。

明治319月、3日間の大暴風雨で、最高10.5メートル増水し、441戸浸水、流された家14戸、つぶれた家61戸、浸水田畑1612ヘクタール、898ヘクタールで収穫ゼロになりました。その後も大洪水は続き、明治43年、石狩川治水工事が始まりました。この時にせっかく開拓した土地を国に取り上げられた人も居ました。

火災の多くは失火によるものです。積雪厳冬の中で生活する為に火気を使うためと、春から夏にかけて激しい季節風によるものです。消防の組織がなかったために大事に至っていました。

大正に入り、米作が安定してきた為、全道敵に造田ブームが始まりました。当別町でも大正2年、灌漑工事を完成し、年々300ヘクタールの田を開きました。

昭和410月、世界恐慌が始まりました。それに追い討ちをかけるように、昭和5年から凶作と農産物価格の大暴落が5年続きました。水田農家の収入は昭和4年の27%、畑作農家は31%になりました。

「農村ヲ瀕死ノ状態ニ陥ラシメ・・・」

農業経済はどん底に落ちいりました。

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現在の当別駅と駅左隣にある「ふれあい館」

☆ ☆ ☆

参考資料

「当別町史」

当別町史編さん委員会 昭和47年

「中央部落史」

中央部落史編集委員会 昭和53年

「とうべつ物語」

当別町 昭和55年

「北海道移民政策史」

安田泰次郎 昭和16年

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2008.04.04

北海道の開拓②浦臼町編其の壱

明治32年に浦臼村は月形村から分かれました。その月形も樺戸集治監の用地でした。懲役10年以上の囚人を遠くの島へという国の方針により、北海道にも集冶監ができ、その一つが樺戸集冶監です。

北海道開拓の大きな三本柱は、移住民、屯田兵、監獄です。

<監獄囚徒による開拓>

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    <月形潔の像>

集冶監選定の命を受けた月形潔ら一行は、明治13年横浜を出航し、樺戸に決めました。地理的にも便利で、内務省が予定している11000人の集徒を収容するのに良いと考えたからです。

北海道は夏が短いから、伐木開墾は雪のある3月から取り掛かります。獄舎も官舎も建設前であったが、小菅監獄から重罪囚人40人をシベツブトに押送させ開墾させました。官舎が出来るまで囚徒と同じ部屋で寝起きしていた月形潔は打ち合わせに上京すると、土産を買って囚徒にも分けてやりました。村名を月形潔の名を取り「月形」とし、内務省からの許可が下りました。明治14年樺戸集冶監が開庁。月形潔が初代典獄(所長)になりました。

潔は開墾した農地は、移住してくる入植者に払い下げたり、刑期を終えたり、仮出所の囚徒に与えていましたが、明治18年、2代目の典獄は方針を変え、遠隔地の使役をすることに改め、翌年北海道庁が置かれて初代長官になった岩村通俊も拓殖事業に囚徒を使うことに力を入れたため、他の集冶監も習うようになり、一番過酷な場所を囚徒が受け持つようになりました。後年、鎖に繋がれたまま、手錠をかけられたままの白骨死体が多数発見されました。

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     <樺戸集冶監>

釧路集冶監の囚徒は硫黄採掘に使役されていました。この硫黄山で2ヶ月も働いていると慢性腸カタルになって食欲が衰え体力が衰えていきます。硫黄の粉末で目を痛め、失明する人も居ました。亜硫酸ガスの中毒で囚徒や看守の中には精神錯乱した人がいて、身の毛もよだつ殺人が行われていました。

今の主要道路は囚徒が開きました。沼や川では寒い中、腰まで水に浸かっての道路工事や橋建設は囚徒は涙をこぼしました。集冶監ごとの競争があり、民間に委託すれば3万円以上かかる工事が囚徒使い捨てという訳で2千円で済んだ道路があります。絶えず追い立てられ、手を休むと怒鳴られ、殴られる。日が暮れても工事が予定どうりに行かないとたきぎを炊いて働かされました。囚徒の疲労は増してきて、体を休めるはずの泊込所は話にならないくらいの粗末な物です。飲み水や食料が滞りがちになります。3食の内2食は、たくあんや味噌だけがおかずです。遠隔地の工事をしているために、開墾した畑の管理が出来なくなり、樺戸集冶監は畑を北越殖民社や個人に払い下げました。

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<囚徒の出入りで磨り減った石段>

<北越殖民社>

明治19年、越後長岡の大橋一蔵を中心に創立され現在の江別市に本社を置いた会社形態の農場です。北海道土地払下規則、国有未開地処分法、無償貸付付与の拓殖政策を背景として発展しました。明治27年、現在の浦臼町晩生内(おそきない)に関矢才五郎を管理人として事務所を設け、15戸の越後移住者で始まりましたが、昭和1011年に自作農へ解放され、農地改革時にはほとんど社有地はありませんでした。

<聖園農場>

「食えぬ民権」から「食える民権」への模索を考えていた自由民権論者の元代議士武市安哉は男女二十数人を率いて新しい農村を作る意気込みでウラウスナイに来ました。監獄用地189万坪の払い下げ手続きを済ませ、キリスト教徒でしたので、翌年念願の教会堂を建設し、小学校にも兼用したのが、聖園小学校になり、後の浦臼小学校になりました。生徒は年毎に増加し、施設が充実してきました。大正2年には聖園尋常高等学校は教育成績が良好で空知教育会長から表彰されました。

入植者が増え、石狩川を渡っての日用品の買出しの不便に耐え切れずに、農場事務所に販売部を置き日用品を売るようになったのが浦臼村での荒物雑貨店の始まりです。

北光社社長として北見に行っていた坂本直寛が、明治30年に一家を挙げて聖園農場に移住してきましたので、強力な指導者を得ました。直寛は、坂本龍馬の兄の養子で、英学を志し、自由民権論者でしたが、明治18年ナックス牧師から洗礼を受けました。明治35年政界から宗教界へ転じ、北海道内の布教に努めましたが、44年、札幌北辰病院で胃がんのため亡くなりました。

その聖園農場が土居農場と改めました。入植者が多くなると複雑な問題が起きたためか、資金難ではないかと推測されます。

☆ ☆ ☆

参考資料

「浦臼町史」

浦臼町役場 大正8年

「浦臼町史」

浦臼町史編さん委員会 昭和42年

「北越殖民社関係資料目録」

北海道立図書館 昭和46年

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2008.04.03

北海道の開拓③浦臼町編其の弐

未開の地、北海道は原始林。木の周りに大人56人が手をつないでも足りないくらいの大木ばかりで下は笹が生い茂っています。3月のうちに入植して雪の上から大きな樹木を切り倒し、雪解けを待って笹と一緒に焼き払い、開墾、種まき、秋に一年分の食料を収穫するのが順序です。ですが、雪が解けてみると、高さ2メートルくらいの切り株が並んでいます。竹やぶを刈る鋸も斧も役に立ちません。12坪くらい開くのがやっとです。割り当てを受けた場所を3年で開墾しなければなりませんが、なかなか進みません。手の先が見えなくなるまで働き、クタクタになって家に帰ります。

入植をしても住む家がありません。雨露をしのぐ住居が必要です。壁と屋根は笹で作った土台のない掘っ立て小屋。その次は、撒き付けが終わってから、丸太を株から切り出し、屋根や壁はヨシの乾燥したものか、木の皮、縄は湿地のスゲを用い、釘は使っていません。窓は壁を小さく切り抜いただけで、ガラスをはめたのは後のことですから、外から突然家に入ると真っ暗でしばらく何も見えません。

月日が経ち夏らしくなったと喜んでいるのもつかの間、ブヨ、あぶ、蚊の大群が襲います。目、鼻、耳に入ってきて笹薮に足を踏み入れると粉をふいたように薮蚊が群がり髪の毛の中に入ってきます。川から水を汲んでくる母の後ろで子供は柳の枝で薮蚊を追い払いながら歩きます。夏になると多くの人たちがマラリヤにかかりました。

秋になり待望の収穫です。しばらくは肥料が要らないといわれていた通り、素晴らしい収穫がありましたが、道路が無い為売りに運べません。売れたとしても話にならないくらい値段が安いので、誰も沢山作る気になりませんでした。

道がないと物が運べないだけでなく、病気になったり大怪我をしても医者の所に行けません。行けたとしても、そこで手に負えなくて大きな病院に行くことも出来ないのです。

寒い冬がやってきます。幅1メートル、長さ2メートルくらいの炉を切って薪をくべるのですが、背中はゾクゾクしてきます。朝起きてみると屋根や壁の隙間から部屋の中に雪が吹き込んでいます。石狩川が厚い氷に覆われているので対岸まで歩いていけます。

交通は石狩川をアイヌ人が造った丸太舟だけです。急流ですからアイヌ人の太田三楽爺でなければ操れません。明治26年、石狩川汽船会社が出来て川蒸気船が通い、札幌、小樽方面からの物資を運搬できるようになりました。その川蒸気船も冬になれば使えません。

今の時代では考えられないくらいの生活をしていく中でも入植者は増え開拓は進んでいきます。道を作り、学校、寺、教会、神社、病院が建てられ、商店、郵便局もできました。月形村から浦臼村が分かれてから、浦臼村は発展していきました。

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2008.04.02

北海道の開拓④よもやま話

幕末、東本願寺は徳川家との関わりが強かったのですが、情勢を見ていると、これじゃまずい。このままだととんだ災難が降りかかってくるかもしれないと考えて、朝廷にお手紙を書きました。その内容は「二心はありません。何でもしますから」というような内容でした(1868)。「それじゃぁ、北海道開拓してネ」と、翌年北海道開拓を許可されました。そんな訳で、札幌市の定山渓から中山峠までの道路を作ったのが、東本願寺の本山です。

この頃、徳川家についていた人達はそうとうヤバかった。

蝦夷の地に倭人が最初に入ったのは何時、誰なのかは色んな話しがありますが、その中から二つ三つ。

鎌倉時代の書「吾妻鏡」の建保4(1216)6月の条に、東寺の宝物を盗み、捕まった海賊や強盗50人くらいを蝦島に流罪するように命じています。

松前藩の「新羅之記録」には源頼朝に滅ぼされた藤原泰衛の残党が蝦夷島に逃げ込んだと記されています。

この時代、蝦夷島に渡った倭人は犯罪人か時の権力者に追われた人なのかしら??

「日本書紀」には、越国の豪族 安部引田臣比羅夫が多くの舟を率いて秋田能代を征服して津軽地に入って、蝦夷島の住民を集めて友好的になったのが658年のこと。翌年蝦夷島に渡ったといわれていますが、今となっては真偽の程を確かめられません。

クリミア戦争(18541856年)に負けたロシアは北海道に目をつけた。“ここ、良いかもしれない。起死回生を図ろうじゃないか”。そんなんで、北の守りは重要な課題になって北海道開拓を始めたけれども、その守りを具体的に始めたのが、明治6年(1868年)屯田兵制度が出来てから。10年かかったというわけです。昔は時間の流れが今よりゆっくりだったから、これでも良かったのかもしれない。

これらの時代よりもっと大昔、たぶん氷河期。カラフトやシベリア大陸と地続きだったといわれ、マンモスやトナカイ、キツネを追って来た人が北海道に初めて住んだといわれています。

映画「アイスエイジ」の世界だ。

北海道開拓シリーズのアップが終わったら、「アイスエイジ」を見ようっと。

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