ダバオの日系人
ダバオは開拓の時に沢山の日本人が行き、戦前はダバオだけで2万人の邦人が住んでいました。サンペドロ通りは当時の日本人街の中心。今でも当時の建物があります。
左側は、カシワバラホテル、右側はオーサカバザール(商店)がありました。
ダバオ歴史博物館が有ります。先住民族から今までの歴史をだどっています。日本人が使っていた食器、古い写真が展示されています。現在のフィリピンの画家の作品も展示してあります。
カリナンにある「フィリピン―日本歴史資料館」。
開拓の頃の貴重な資料が展示されています。貴重な本もありました。
昭和19年8月26日夜、橋本茂から妻ロサリオと長女和枝に宛てえた2通の遺書が展示されていました。
戦時中、日本軍のものです。
ダバオではアバカ(マニラ麻)の生産をしていました。アバカは丈夫で耐水性があるので、パラシュートの紐やロープの材料になります。第一次世界大戦では需要がとても伸び、生産が追いつかないくらいでした。
ミンタルにある邦人墓地です。
お墓には、生年月日、没年月日、その下にはFor Loving Family と書かれています。
いくつか見ましたが、生年月日のない人、生年月日と没年月日が同じ人が数人いました。
先住民族は時間の概念が私達と違っていて、生まれた日はいつなのかを尋ねると、「黄色い花が咲く頃」とか、「あの日は暑かった」と言う答えが返っています。ですから、邦人と現地の先住民族との間に生まれた人かもしれませんし、戦後、フィリピンに残った邦人は、フィリピン人の日本に対する恨みを一身に受けていたので、自分や親が日本人だと分ると、殺されかねない状況だったので、写真一枚残さずに棄てたのが理由かもしれません。
お墓から、亡くなられた方の人生を垣間見る思いがしました。
記念碑もいくつかありました。
日本人墓地に行く途中に、ダバオ開拓の父と呼ばれている太田恭三氏の記念碑があります。
海側の、トリルより先にあるダリアオンに、古川拓殖会社の跡地があります。ダバオ開拓の会社は大きい所は、古川拓殖と太田興業です。
海沿いだからでしょうか。戦時中に爆撃を受けたあとが残っています。ここに工場や倉庫がありました。中はがらんとしていて、一部生産に使っていたと思われるものが残っているだけで、何もありません。木造の建物は窓枠の木はかなり丈夫そうで、今でも使えそうです。
敷地は25ヘクタールあり、今はマニラにあるナショナル・デベロップメント・カンパニーの所有です。エントランスから入り、会社とバランガイに手続きをしてから入ります。そんなこととは知らずに、黙って入ってしまいました。
周りに住んでいる人は貧困層ですが、雰囲気は良い所です。
ダバオ空港の近くに、日系人会があります。
日系2世と3世が中心となり設立されました。
幼稚園から高校まであります。
1991年設立、現在の生徒数1250人、外国籍の子供も入学できるようになりましたので、米国、韓国、ドイツ、日本の国籍を持つ子がいます。
フィリピンのカリキュラムの中に日本語教育が入っています。
ミンダナオ国際大学。
・・・つまり、一つの敷地内に日系人会と、幼稚園から大学まであるのです。幼稚園から大学まで、一貫して日本語教育を受けられます。学生は日本語スピーチコンテストで優秀な成績を収めています。
このあたりは、設立当時は何もないところだったそうですが、今では韓国の学校が出来て、商店や会社の事務所が出来て、交通量も増え、地域が活性化されました。
ダート内田ゲストハウスに泊めていただきました。
ここには、ミンダナオで活動をしている人たちが集まります。日系リーガルサポートセンターのスタッフ、学校の先生が宿泊していました。朝食をとりながらのおしゃべりは情報交換です。
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