柏原ホテル
ダバオ市サンペドロ通り。
この建物の右側が大阪バザール(大阪貿易ダバオ支店)、左側が柏原ホテルだった。
ダバオ開拓の父といわれている太田恭三郎は、ルソン島ベンケット道路工事をしていた日本人を連れて、ダバオでマニラ麻栽培を始めた。1905年(明治38)ベンケットから100名を連れてきた第2回移民に、橋本音次医師と共にダバオに入った。橋本医師はバゴ、ミンタル、その他に巡回診療をしていたが、4年間の滞在の後ダバオを去った。
その後、マニラで開業していた鈴木西照医師を呼び、ダバオで開業。その場所が、この写真の左側。
太田は耕地方面を見る医師を得たいと台湾総督府に相談。天川保医師を紹介され、ミンタル病院の開業となった。
1915年(大正4)柏原達象が鈴木医師の診療所跡にダバオでの初めての日本人旅館を営んだ。日本人による開拓が進み、日本人が多く出入りするようになったため、旅館は繁盛し、改築し設備を充実して大旅館になった。当時、ダバオに来る日本人の多くは、この旅館の世話になった。
柏原達象は、1884年(明治17)6月23日、広島県御調郡重井村生まれ。海外発展を志し、19歳で西濠州ブルームに渡り、真珠貝採取に従事するも半年でシンガポールに引き揚げる。1905年ボルネオ経由でホロ島に上陸の後、コタバトで米人のボーイとなった。その後、米軍で勤め、多少の蓄えが出来たので雑貨店「やまと屋」を経営するも、米軍の引き上げで閉鎖しダバオに移る。始めはレガスピ街に住んでいたが、サンペドロ通りで旅館を始めた。
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