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2010.04.09

古川拓殖株式会社

 ダバオでマニラ麻栽培をするために、伊藤商店(現伊藤忠商事)が後援し、1914年フィリピン法人法により、古川拓殖株式会社が設立された。
1915年(大正4)4月1日、ダバオ州ダリアオンにある米人バーチフィールド大尉の所有するケンタッチー耕地を購入し、栽培事業に入った。

 1898年4月の米西戦争で同年12月にフィリピンはグアム、プエリトリコとともにアメリカ領に編入された。ミンダナオに最初に入ったのは退役軍人である。1899年12月20日、最初のアメリカ兵としてダバオに進駐したバーチフィールド大尉は1901年4月にアバカ栽培に着手した。

 古川拓殖は当初から事業地拡張にまい進することなく、マニラ麻生産と輸出に傾注した事業を行っていた。そのため、傘下に置いた会社も少なかったが、戦前ダバオにある多数の日系会社の中では第2位の規模。

資本金
10万比 設立時払い込み2万比。未申し込み資本金8万比。
1917年:年額10万比払い込み。
1921年:50万比に増資。払い込み25万比。未申し込み資本25万比。
1924年:全額50万比払い込み。
1925年:150万比に増資。払い込み75万比。未申し込み資本金75万比。
1935年:全額150万比払い込み
1941年:1,000万比に増資。払い込み350万比。未払い資本金650万比。
終戦となる。

Fh000012

設立時役員
取締役社長:古川義三
取締役副社長:伊藤孝太郎
取締役:芳竹芳吉
取締役:大橋藤造
秘書役:レオポルド・アギナルド
監査:小島政一

 古川拓殖は敗戦のため消滅したので、古川は終戦特後、日本の法律によFh000014って、新たに古川拓殖株式会社を設立。

 2枚の写真は、現在のダリアオンにある古川拓殖の跡地。当時の建物が残っている。当時の写真から倉庫のようです。砲弾の跡が戦争の激しさを物語っている。

 古川義三は、1888年6月15日、滋賀県犬上郡豊郷村で生まれる。母の姉は初代伊藤忠兵衛の妻。伊藤忠兵衛は、伊藤商店(現伊藤忠商事)の創立者である。東京帝国大学農科大学林学科を卒業直後に渡比。古川拓殖を設立する。

かな文字タイプライターの開発
 かな文字であれば42キーの標準タイプライターのアルファベットをアルファベットを取り替えるだけでかな文字タイプライターができる。アンダーウッド・タイプライター会社と特約して製作した。はじめ強く反対した社員ほど熱心なかな文字タイプライター党となった。
 大同貿易会社もはじめは強く反対したが、古川拓殖の職員が使っているのを見てマニラ支店を皮切りに、フィリピン、ジャワの各支店に広がり、仕事の効率を上げた。

ダリアオン・クラブ
 関係会社社員も入会させた。収入は給料の一定パーセントとし、不足分は古川拓殖がクラブに寄付した。クラブ・ハウスは初期から持っていたが、1937年に2階建ての建物にし、階上は独身社員寮。階下は玉突き台、柔道場があり、社員の冠婚葬祭も行われた。テニスコート2面のうち1面は照明をつけて夜間も利用できるようにした。

運転免許
 移動は馬から自動車の時代に変わった。運転手を雇わず社員に免許を取らせた。この時代の自動車運転は日本人から批判があったが、事故防止のためになった。その反面、こっそり遊びに出られる弊害もあった。

ダリアオン病院
 病人がたくさん出たために病院を開設した。日本人医師1名、日本人看護師2名、フィリいピン人医師1名を招聘した。しかし、病院経営の困難のために閉鎖し、その後は古川拓殖は病院経営をしなかった。

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