マニラ麻栽培と日本人移民⑧日本人社会の発展
麻挽きはハゴタンと呼ばれる木とナイフを組み合わせた簡単な農具による手挽きだった為、重労働で生産性が悪かった。そこで、大城孝蔵らは、何度も改良を重ね、発動力による動力ハゴタンを開発した。それまでは自営者1人で3ヘクタールの麻山経営が限界で、1日10キログラムしか挽けなかったのが、1時間に15キログラムを挽けるようになり、10ヘクタールの麻山経営が可能となった。1920年のことだった。
マニラ麻価格の変動についていけない自営者は、価格決定力のある買い手の栽培会社に対して不満があった。そこで、1924年、に入札制度が導入され、毎週行われていた。売る側はそのときの最高価格で売れ、買う側は、必要な質、量を探し回らなくてすむ為に、 トラブル解消と経費節約以上の利点があった。
自営者耕作法、動力ハゴタン、入札制度と、栽培から出荷まで合理化を進めていった結果、フィリピン全体ではマニラ麻の輸出量は頭打ちだが、ダバオからの産出量は増えていった。
ダバオでのマニラ麻産出量
1920年 18千メートルトン
1930年 49千メートルトン
1940年 87千メートルトン
1926年にダバオ港が開港になり、マニラ、サンボアンガを経由しなくてもよくなった。日本郵船のダバオ寄航が決まり、大阪商船が定期便を運行するようになった。これにより、マニラ麻運搬の経費が削減になり、移民も旅費や日にちがかからなくなり、ダバオに行きやすくなった。日本からの妻子、嫁の呼寄せも増え、定住性が出てきた。男性ばかりの所に嫁が来ると、暖かさが出てきた。マニラ麻価格が下落しても、在留日本人は増えていった。1924年にダバオとミンタルに小学校が出来て、1933年から1937年までに毎年開校になり13校の設立となった。一つの地域でこれだけの日本人学校の数は満州国に次ぐものだ。小学校の行事が、スポーツや娯楽と共に、日本人の楽しみの一つになった。
在留日本人数
1925年 4562人
1930年 12,469人
1935年 13,535人
1939年 18,440人
1925年からマニラ麻価格が高騰し、ミンタル病院に勤めていたフィリピン人医師が農事会社を設立して公有地租借を始めた。その周辺に多数のフィリピン人が租借した。それに目をつけた日本人が獲得に乗り出した。日本人自営者は共同経営の形を取り参入してきた。
ダバオでの日本人移民とキリスト教フィリピン人の移住とは共通するものがある。第1次世界大戦好況時に日本資本が流れ込み、日本人が増えていった時期には、フィリピン労働局の勧めもあり、セブを中心とした移住者が増えた。日本と異なるところは、家族同伴が多いことだ。日本人と同じように不況になると帰っていき、麻価格上昇と共に再び増えた。1930年代には定住するようになり、多くは日本人経営のマニラ麻園で働いていた。マニラ麻の栽培から出荷までの合理的なシステムに入っていけず、周辺に置かれていた。
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