マニラ麻栽培と日本人移民⑩麻栽培の終焉
1941年7月26日、資産凍結令が出された。資産凍結令を出したコモンウエルス政府は、日本人の外国送金を一切禁止、個人の引き出し1千ペソ以内、フィリピン国立銀行ダバオ支店では、日本人の払い出し中止、9月にはマニラ麻の船賃の送金が個別許可、11月12日にはそれまで行われていたフィリピンに本館の貿易が凍結され、その10日後にはフィリピン国内の取引も停止になった。
自営者の売上代金が支払えず、労働者への賃金支払いが出来ず、日本からの太田興業、古川拓殖への資金停止になった。世界恐慌以降資金繰りに苦しんでいた農事会社へ、利子の半額の補助をしていた台湾総督府からの補助金、移民事業に対しての拓務省からの補助金が受け取れなくなった。流通も停止した。在留日本人は資産を自由に使えず、フィリピンの管理下におかれた。日本人の資産報告が求められたが、自営者の土地法違反(公有地の又貸し)が明らかになるために、対応を検討した。
このようなことになったのは、日本軍が仏領インドシナに介入したからだ。
1931年に満州事変が起き、翌年に満州国が建設になった。1933年9月25日、「海軍の対支時局処理方針」が決定になり、海軍では「南進」が避けて通れない問題になった。1936年8月7日の5相会議と4相会議で「帝国外交方針」が決まり、南方問題が日本の国策構想に位置づけられた。1940年7月22日、「基本国策要綱」と「世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要綱」の原案が、陸軍省と参謀本部の中堅将校により作成され、閣議決定された。海軍だけのものだった「南進」が陸軍の加わる事により国策となり、10月25日に閣議決定された「対蘭印経済発展ノ為ノ施策」には、「大東亜共栄圏」と表現されている。
1937年12月に、日本軍は南京を占領した。南京から重慶に移動した蒋介石の国民政府をイギリスとアメリカ等は支援を活発化した。その支援ルートを遮断する為に、日本軍は仏領インドシナに進出した。
1941年、日本はタイと仏領インドシナとの国境紛争の調停役として進出しようとしていた。資源獲得のための蘭領東インドとの交渉は、オランダの抵抗で進まなかった。同年6月25日、大本営政府連絡会議では政策方針を決定し、仏領インドシナ南部に進出を開始した。それに対してアメリカ、イギリス、オランダが資産凍結令を出し、アメリカの措置を受けてフィリピンのコモンウエルス政府も追随した。
資産凍結令が出された後もダバオの大多数の在留日本人は帰国しなかった。帰国しなかった理由とし、苦労をした土地から離れたくなかった事、国際結婚が多かったこと、帰国費用が用意できなかった事が考えられる。
在留日本人は利益を国元に送金して帰国に備えていた。1927年のフィリピン全国の日本人の送金総額は1,004,724円で、未就労者も含めた一人当たりでは89円(178ペソ)になる。当時の労働者の日給は1ペソ前後だった事からほぼ1年分の賃金が日本に送金されていた事になる。
1941年12月8日、日本軍は真珠湾とダバオのササ空港を爆撃し、太平洋戦争が始まった。在留日本人は収容所に入れられたが、ダバオに上陸した日本軍によって解放された。開放された日本人は軍の方針により、勤労奉仕、食糧増産に駆り出され、太田興業や古川拓殖の職員は軍と行動をともにした。資産凍結以降、マニラ麻園は荒れていく一方だった。1942年6月には生産はほぼなくなっていた。
帰国を夢見て働いていたが、その夢が資産凍結令によって果たせなくなった。在留邦人がダバオで築き上げてきたもの全てが日本軍によって摘み取られてしまった。こうして日本人の手によるマニラ麻栽培は終わりを告げた。
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