マニラ麻栽培と日本人移民⑦麻価格と在留日本人数
マニラ麻価格が高騰すると渡航者数が増え、在留日本人数も増えてくるが、麻価格が下落すると渡航者数、在留日本人数共に減少している。
1915年 麻価格20ペソ、在留日本人数1550人。
1918年 麻価格49ペソ、在留日本人数7350人。
1921年 麻価格17ペソ、在留日本人数4265人。
1925年 麻価格44ペソ、在留日本人数4562人。
金儲け話しが国元に送られ、移民会社も宣伝した為、月2~3回ダバオに来る船には1回に100~200人の移民を迎えて奪い合っていた。日本人移民はマニラから老朽船に乗ってタロモに上陸していた。マニラを経由すると船賃が高くつくため、太田興業は日本優先の豪州定期便がサンボアンガに寄航するように交渉し、実現してからはサンボアンガから船に乗り継ぎタロモまで行った。当時のタロモは柏原旅館の支店、商店が建ち並び活気付いていた。1917年の日本人農事会社は60社にのぼっていたが、実際に開拓されていたところは太田興業のバゴ地区で、ミンタル地区の裏辺りもジャングルの中だった。マニラ麻園の開拓の方法は二つあり、ひとつは一度使われていたあと放棄された土地を使う方法があるが、麻の生育が良くない。もうひとつは、原始林の開墾だ。
厳しい労働条件だったが、2~3年働いて麻栽培を覚えると耕主になれるので、麻挽きの仕事に就いた。麻挽きは重労働で1日に20キログラムを生産するために1日おきにしか働く事ができなかった。朝6時から仕事が始まり、日の暮れるまで働いた。朝食の当番の人はもっと早く、3時、4時に起きた。麻挽きには力が要る。麻の渋が着ているものにかかるので、乾くとカパカパになり鎧を着ているようになるが、着替えがない。ドラム缶で沸かした湯を洗面器1杯ずつ配り、それで体を拭いていた。カイコ棚の寝床に潜り込むのは夜の11時を過ぎていた。
1918年、年平均49.25ペソだった麻価格が下落し、1921年には17.14ペソにまで落ちた。1919年は不作と重なり、在留日本人は苦境に立たされた。不況と共に食料不足にもなっていたからだ。生活苦に陥った労働者と栽培業者との間で紛争が起きた。主に食糧供給をめぐり、一部の自営者が栽培業者の倉庫を襲い放火し、10余人が逮捕される事件が起きた。本土日本人は見切りをつけてダバオを離れる者が多かったが、沖縄県人はダバオに留まった。そのため、沖縄県人の方が本土日本人よりも多くいた時期があった。ダバオの不況は沖縄の最好況よりもはるかにいいからだ。太田興業の大城孝蔵は沖縄県出身だったので、大城の成功に続けと沖縄県人が次々とダバオに渡った。ある程度の蓄えができると国元に帰り、瓦屋根の家を建てた。沖縄では1日に1回しか食べられなかった米が、ダバオでは1日3回食べられた。移民の動機は、経済的理由だけでなく、徴兵忌避もあった。外国在住者は本人の申し出により、徴兵を免除されていたからだ。
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