マニラ麻栽培と日本人移民②マニラ麻栽培の始まり
19世紀末に米西戦争が起き、アメリカはフィリピンを領有した。スペインよりも軍事力が勝るアメリカはミンダナオを征服するために、1899年12月20日、米軍のバーチフィールド大尉(写真)が中隊を卒いてダバオに進駐した。トルコ人、スペイン人、中国人、フィリピン人の農園があった。当時の米軍は進駐した地に退役軍人を住まわせる方針だった。バーチフィールドは退役する前の1901年4月にダリアオンの土地を購入し、ケンタッキー・プランテーションの経営を始めた。初代モロ州知事ウッド将軍の勧めもあり、アメリカ人プランターの数が増え、1905年2月15日、ダバオ栽培者協会が設立され、翌年には会員数が60人になった。
アメリカ体制期の土地制度は、スペイン時代からの制度を政策的に利用したため、そのまま継承している。1902年にアメリカは公有地を処分する権限をフィリピン政庁に与えた。同年にフィリピン組織法第15条により土地の購入が制限された。幾度かの改正により、最終的に個人の取得24ヘクタール(フリーパテントとホームステッド)、購入144ヘクタール、会社1024ヘクタールまでと決まった。
ホームステッドとは、21歳以上もしくは世帯主であるアメリカ人とフィリピン人に対し、自己による耕作を条件に24ヘクタールまで公有地無償譲渡を認めた制度であり、フリーパテントとは、1898年8月1日以降継続して占有、耕作しているか、同年8月1日までの3年間と1902年7月4日以降占有、耕作している者に対し、24ヘクタールまで申請により占有地の所有タイトルを無償で譲与すると認められた制度である。
取得制限があったため、ダバオ州の農園は小規模経営であったが、常に人手不足だった。
写真は、ダバオ会編『ダバオ 懐かしの写真集』より
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