マニラ麻栽培と日本人移民⑨対比摩擦
在留日本人が増えると土地問題が再燃した。上院と下院の温度差、議員を選出した地元の思惑、高官が地位を利用して公有地租借に対する反発、日本人への脅威が恐怖に変わり、土地法違反の対処と、さまざまな問題が絡み合っている。在留日本人に対して恐怖心が出てきたのは1931年に満州事変が起きたからだ。「満州国」になぞらえて「ダバオ国」と呼ばれるようになった。アメリカでもダバオ在留日本人への警戒感が出てくるようになった。
1935年6月20日、第1回租借取り消し命令が出された。取り消し194件、裁定魅了のため未認可8件、合計202件となった。翌年1月にマニラから木原副領事がダバオに来た。3月にダバオに行くが、その前に日本人代表と会いたいというケソン大統領の希望を伝えるのが目的だった。太田興業社長諸隈、古川拓殖社長古川、柴田領事がマニラに行き、フィリピン関係者と会見し、大統領訪問に備えた。
ビコール地方を視察のケソン大統領が急遽予定を変更し、ダバオ行きが決まったと電報が入った。4月10日午前、ケソン大統領一行20名がダバオ港に到着し、ダバオを視察した。大統領はダバオ問題には慎重な姿勢だった。
6月9日、再びケソン大統領一行がダバオを訪問した。大統領の他、副大統領、前下院議長、参謀総長、大統領技術顧問など、4月の訪問時とは全く顔ぶれが違っている。大統領の声明が発表された。「ダバオ問題は事実上存在しない」というものだった。租借取り消し命令は無効となった。
2回目の訪問時に同行した大統領技術顧問はハリソンだ。1919年の土地法改正にあたり、ハリソンは修正案を提出し、ケソンが反対意見を論破した結果、日本人の提案より有利になったことがある。ケソンとハリソンは同じ考えを持っている。その考えとはいったい何なのか?
4月、6月と続けてダバオを訪問し、6月の同行者の顔ぶれから、フィリピン内ではかなり強い日本人批判だった事が伺われる。
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