マニラ麻栽培と日本人移民④1900年代の移民の暮らし
太田恭三郎がベンケット移民と共にダバオ入りした1906年には約300人だった日本人は1911年には約600人に増えていった。1907年から0911年までの移民会社取り扱いフィリピン行き渡航者調査によると、ほとんどが男性で、15歳から40歳が大半で、職業は農業、大工、木挽き、杣挽きに大別できる事から、フィリピンでの仕事は農業と林業に携わっていたことが分かる。自由渡航者は熟練職人であるらしく、家督相続人が多いことから本家の経済が逼迫している様子が伺われる。1906年5月の栽培者協会総会で、日本人労働者に対する報告がされている記事が『ダバオ邦人開拓史』に掲載されている。
「過去2年間すでに日本人労働者を使用してみたが、結果は不成績であった。日本人労働者は高い給料を要求して、たんに麻挽きのみを望み、その上定住性がなく頼りにならない。」
マニラ麻栽培の始め、ダバオがまだ原始林だった頃、30件くらいの部落しかなかった。道路の真ん中にカラバオ(水牛)の穴がいくつもあった。まだ住む家もなく、野宿が多かった。作付け方法や農機具なども工夫をしなければならなかった。食料が不足し、品質の悪い米と、副食も口に合わなく、野菜もなかった。原始林の開墾もしなければならなかった。ベンケットよりも悪い環境である為、ダバオを去る者が多かったが留まる者もいた。
太田が購入した公有地はバゴボ族が先祖伝来住んでいた土地だった。焼畑をし、数年ごとに住む場所を移動していたので、住んでいない土地を公有地とみなされてしまい、日本人が入ってきた。対立が起きたが、バゴボの娘と結婚して耕地を得た人もいて、対立を和らげる役割をしていた。バゴボは日本人に土地を貸すことにより地代を得て税金を払い、日本人は耕地を得ていたので、国際結婚は多数あった。結婚届を出していないケースがかなりの数になった。合法的結婚だとフィリピン人妻は結婚と同時に日本国籍になり、フィリピン国籍も土地所有権もなくしてしまうからだ。
写真は、ダバオ会『ダバオ 懐かしの写真集』より
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