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2010.12.05

マニラ麻栽培と日本人移民⑥ダバオの開拓は日本人で

 アメリカ政府は、日本人のマニラ麻栽培を容認する一方で、進出を抑えるために再びアメリカ資本を投入した。ブキッドノンに広大な牧場2つと、デルモンテ社のパイナップル農園が出来た。1900年初頭、ダバオのプランテーションに投資し設立された農園は、日本人に取って代わった事から、日米の資本の棲み分けができた。

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 1918年にダバオに日本人会(写真)が設立し、翌年には領事館が開設になった。次々と起こる土地問題の対応に中心的な役割を果たした。日本人会では同年、移民呼寄せの許可範囲を広げ、4親等までにすることをマニラ領事館、移民会社と交渉し、11月に、マニラ領事の手を経て日本外務大臣に陳情書を提出した。

 日本人が増えると、日本人批判がマニラの新聞に掲載された。批判されている事は、土地の払下げや租借の制限を守っているか、マニラからダバオ行きの船は日本人で定員オーバーになり環境が悪い、バゴボ民族との摩擦、日本人の不法入国だ。マニラ領事が日本人会に対応を迫り、日本人会は回答した。

 1919年、公有地法が改正になり、アメリカ人、フィリピン人の持ち株が61%以上でなければ、租借、払下げができなくなった。そこで、日本人栽培者はマニラの来栖総領事や他の有力者との協議を重ね、6項目の申し入れをした。総督ハリソンは1920年2月4日付で議会に対し、「日本人栽培業者を救済しなければ、彼等は困難に直面する。既にダバオ州の多大な発展をなしたのは勤勉な日本人である」とし、44日本人会社の許可を推挙した。ハリソンの緩和案をうけ、上院では議長のケソンが反対意見を論破し、16対2で修正案が通過した結果、日本人の提案よりも有利なものになった。

 1918年、ダバオの状況は急速に悪化していると発言したハリソンが日本人を擁護し、ケソンも同じ考えを持っていた。この時期、日本とアメリカではアメリカ行き移民の制限について協議をしていたが、米領フィリピンでは労働者不足から日本人移民に対する制限は行われなかった。フィリピンでは植民地開発に日本人は必要な存在であった。

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