マニラ麻栽培と日本人移民⑤日本資本の流れ込み
1910年代は、第1次世界大戦景気で日本資本がダバオに流れ込み、農事会社が多数設立された。古川拓殖株式会社もそのひとつだ。
伊藤忠商店(現伊藤忠商事)と丸紅の全面的バックアップにより、1914年12月28日古川義三が社長になり、古川拓殖株式会社が設立された。バーチフィールドの耕地100ヘクタールを2万ペソで購入し、マニラ麻栽培を始めた。マニラ麻生産と輸出に特化した事業を行っていた。
1907年に太田興業が設立されてから1920年までに設立された日本人栽培会社は71社にのぼる。米・西・比・中の外国人耕地を買収した会社もある。公有地や私有地の購入よりも公有地租借の方がかなり多く、小額資本で参入している様子が伺われる。1917年の自営者数は525人、古川拓殖の使用人数百人となっている。
マニラ麻は等級と包装に基準がないため、海外でのマニラ麻の信頼獲得を目的として、格付けと包装の規定を設けた。製鋼用マニラ麻等級は13段階で、Fが標準である。
産出されたマニラ麻は、ダバオ港開港後で入札制度が採られてからはアメリカの商会とイギリスの商会も買っていたが、太田興業、古川拓殖、三井物産、で全体の65%以上を買い取っていた。
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