マニラ麻栽培と日本人移民③太田興業株式会社
ダバオの人手不足に目をつけたのが、マニラで商店を経営していた太田恭三郎(写真)だった。ルソン島北部山岳地帯ベンケット州バギオに至る山道の建設工事が1901年1月15日に開始され、1903年から多数の日本人が工事に携わるために、ベンケット州に渡っていった。太田は日本人相手に日本食や雑貨を販売していた。工事が終われば日本人移民の仕事が無くなるため、1904年、1905年に合計350人をダバオに送り出し、1905年7月に自身もダバオに渡った。バゴとミンタルの公有地1010ヘクタールを購入し、バゴボ族相手の商店を開店し、マニラ麻栽培も手がけた。1907年5月3日、フィリピン法人法により太田興業株式会社を設立、1909年より本社をタロモに移した。
太田は、道路建設、灌漑網、電話網、病院開設、桟橋建設と公共事業を進めていき、マニラ麻栽培の基礎を築いた。
日本人は自分で農業経営をする土地を持ったほうがよいと考えた太田は、自営者耕作法(パキアオ方式)を考案した。自営者は会社の耕地を借り、栽培経費を負担しマニラ麻を栽培する。収穫物は会社に販売を委ね、5%の地代を納めるものだった。太田興業株式会社が設立されたときに、地代は10%に引き上げられた。自営者耕作法はその後、太田興業だけでなく、広く採用され、他の農事会社や先住民族の土地を日本人が租借しマニラ麻栽培をする場合にも用いられた。
1900年代の日本人農事会社は商業をしていくためのマニラ麻栽培だったが、次第に農業に傾注するようになるきっかけとなった政令が1909年、ダバオ州政府より知事アレン・ウォーカーの名によって出された。
ダバオからサンタクルースに至るまでの1里以上奥地で、商業を営む事を禁ずるとの内容だった。バゴボ族への商品の販売はツケで行われていたため、閉店すると代金の回収ができなくなった。また、在庫商品は他地域では売れなく、資本力のない日本人商店主は死活問題に直面した。商業の岡田孝太郎と医師の橋本音次の2名がマニラに行き、岩や領事と対策を協議した。領事がモロ州知事ブリスに打電したが、「なんら関知せず」との返事しかなかった。そこで、領事館顧問弁護士でアメリカ人のハーディガンに相談すると、土地を獲得し、農事会社を設立すると商業が続けていけることが分かった。こうして、1911年、イムラに岡田孝太郎がミンダナオ農商株式会社を、カタルナンに商業の上田亥之吉がカタルナン農業株式会社を、ローヤンに商業の赤峰三郎が南ミンダナオ興業株式会社を設立した。
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