« 2011年11月 | トップページ | 2012年1月 »
パソコンを使っていて、ファイルを入れたり削除していると、パソコンが重くなってしまします。
そういう時はハードディスクの「最適化」をするといいのです。
手順を書きますね。
「スタート」ボタンをクリック ⇒ 「すべてのプログラム」の中の「アクセサリー」をクリック ⇒「システムツール」クリック ⇒「ディスクラグツール」クリック ⇒ 最適化したいドライブを選びます ⇒右下にある「ディスクの最適化」をクリックすると作動します。
しばらく時間がかかる時がありますが、待ちましょう。
終了したら「最後の実行日」に実行した日にちが現れます。
おしまい。
何をしているかというと、ファイルを入れたり削除していると、ブツブツ切れている状態になるので、それをつなげている作業をしているのです。
これで軽くなると思います。
軽くならない場合は、自信のある方は対処してみてください。
自信のない方は、プロに頼みましょう。
インドネシア人と待ち合わせをしていて、80年くらい前の写真や書類を見てもらいました。何語で書いてあるかわかりませんでしたが、オランダ語だそうです。オランダ時代ですもの、書類はオランダ語なのです。隣にいた人が、オランダ語の辞典を持っているよと声をかけてくれたのですが、どの言語も日本語と同様、80年もたつと変化があるのです。
地名は、オランダ語表記になっているものは、インドネシア語で何て書くかをいくつか教えてもらいました。出生証明書の形式は、オランダ時代と現在とでは、大きな違いがないようです。
インドネシアは熱くて湿度が高いから、写真はすぐ悪くなってしまうので、昔の写真はないのだそうです。40年で古くなるそうです。そういえば、フィリピン史の先生の著書に、フィリピンは、戦争や災害で記録が無くなってします。一番の破壊者は気候だと書いてあったのを思い出しまいた。東南アジアの資料の乏しさを実感しました。
最近Facebookにハマっています。
私を○○に例えるとや、転職診断をしたものを集めてみました。
○徳川家将軍に例えると、10代将軍家治タイプ。
知力・体力に恵まれながら、行動力はイマイチの家治。おおらかなのはいいけれど、たまには自己主張してみよう。
○犬に例ええると、柴犬
日本古来の土着犬。「シバ」とは本来小さなもの、小さな犬を意味する。小動物や鳥の猟犬として使われていた。天然記念物に指定。性格忠実、感覚鋭敏、警戒心に富んでいる。
○転職診断
1.焼き鳥屋(適職度82%)
2.悪の秘密結社(適職度71%)
3.時計修理士(適職度46%)
○世界のセレブにたとえるとレディー・ガガ
一風変わったセンスの持ち主で、ときには変わり者と言われることもある完全な芸術家肌。けれど、素顔は誰よりも情にもろく面倒見の良い人で、多くの人に慕われるリーダー的存在でもあります。サービス精神やボランティア精神が旺盛でいつも人をあっと驚かせたり、喜ばせたりすることが大得意!
○5年後にドヤ顔でこう言います。
「世の中は美しい。それを見る目を持っていればね。」
寒くなってくると布団の中でぬくぬくしているのが好きなのが、徳川家治タイプ、脚が短めなので柴犬、自由奔放が好きなのでレディー・ガガと出たのかもしれません。
転職診断は、どう理解しようかしら?
今でも「世の中は美しい」と思っています。
当たるも八卦、当たらずも八卦。全く違っているというわけではないようです。
札幌駅方面からの帰りの地下で、写真のような一角がありました。真ん中に入って写真が撮れるようです。私も撮りたいなと思いましたが、ぐっとこらえました。
知人のお見舞いに市内でも大きいほうの脳神経外科に行ってきました。
病室で2時間おしゃべりをしていましたが、リハビリの時間になりましたので帰りました。
1階のロビーでは、入院患者さんを対象として音楽療法をしていました。
係りの人に伺うと10分くらいで終わりますが、参加してもよいとのこと。
ちょうど椅子が一つ空いていましたので、それに座りました。
誰を対象としているかで内容が違うのですね。
患者さんたちは楽しそうにしていました。
演歌2曲の後は、「ふるさと」をみんなで歌いました。
戦争で身元が分からなくなり、調査をしている日系人15人のライフヒストリーを読んだり、8月に放送になった集団一時帰国のニュースのDVDを見たりしていましたので、彼らのことを思い起こし涙が出てきました。
最後の方での飛び入り参加でしたが、心豊かになったように感じて帰ってきました。
「フィリピン日系人リーガルサポートセンター」に行ってきました。
事務局長さんと少し話をしてきて、「ダバオ新聞」(昭和19年)を4時間半で読んで、必要な所を書き写してきました。もっと読んでいたかったのですが、時間切れです。
戦前2万人いた日本人は、戦争が始まっても引き上げずに、日本軍に協力をしました。その様子が分かります。軍用機を買うための献金をし、軍人の遺族や傷痍軍人の援護、生活支援などをする「ミンダナオ軍人援護会」が結成されていました。
日本時代は短かったですが、フィリピンの産業や農業などを壊滅に近い状態にしました。その為に、食料と衣服が不足し、マニラでは餓死者が出たほどです。
ダバオも食料不足はかなり深刻な様子がうかがえます。連載で「いかもの食いの話」の記事があり、昆虫、ミミズ、ネズミを食べるのを勧めています。
陸軍、海軍、日本大使館からの檄が飛びます。
「…アジアの解放と永遠に決する戦いである。…大東亜民族10億の結束…」
「日本人会を中核とし、完勝にまい進せよ。」
ジャカルタに行って戦時中に発行になった、マレー語と日本語で書かれた雑誌の復刻版を読んでいた時は、気持ちが動いて涙が出そうになったのですが、今回は、あまりの状況に感情さえも出てこないのです。
大正・昭和初期の南洋航路を調べています。調べ始めたばかりですので途中ですが、ブログを編集する都合上、アップします。資料が乏しいために情報量が少ないですが、分かったことがありましたら、その都度アップします。
大正期の南洋航路(定期航路)は、日本郵船、大阪商船、南洋郵船がジャワ島に行っています。このほかにもジャワ島に行っている船があるかもしれません。
○日本郵船
カルカッタ航路の延航として、大正7年4月に開設されました。船は横浜、名古屋、神戸、大阪、香港、バタビアに寄港して、日本から30日で到着します。大正11,12年ころは、神護丸、土佐丸、神盛丸の3隻のみの配船でした。客室は1等から3等までがあり、昭和5年の神戸からダバオ、メナド間の運賃は、1等208円2等136円、3等69円です。食事は、1等の朝食と夕食は和食で、昼食は洋食です、2等、3等は3食和食でした。
ジャワ航路はカルカッタ航路の延航として大正7年に開設され、横浜、名古屋、神戸、大阪、香港、バタビヤに寄港し、日本出発後約30日で到着になりましたが、昭和6年には配船が休止になりました。
○南洋郵船
1929年(昭和4年)には、神戸、スラバヤ間が就航していました。往路は、マカッサー、スラバヤ、サマラン、バタビア、神戸です。
○大阪商船
放送大学文京学習センターに行ってきました。
1枚目の写真を見てください。放送大学は筑波大学と肩を並べました。
文京学習センターに行った目的は、ロボットのゼロワンに会うためです。
faceboockで知り合ったお勉強仲間が作りました。
ドアの前で門番をしているところは、キリッとしていて、ホバークラフトに乗っている姿は誇らしげ。ギターを抱えているのが、かっこいいのです。「ほれちまうがな」とコメントを入れたら、初対面がかないました。
いくつかの言葉をかけると返事をします。
一緒に写真を撮ってもらいましたが、恋人とのツーショットに緊張してしまいました。
東京からの帰りに羽田空港に行き、搭乗手続きをしようとカウンターに行くと、千歳空港は吹雪の為に、手続き開始になっていないとのこと。時間が遅くなればなるほど状況は悪くなるので、運航するかどうかわからない。そこで、ひとつ前の便のキャンセル待ちにすることにしましたが、順番はまわってきませんでした。搭乗手続き開始になるかどうかを、カウンターの前で待つ、待つ、待つ・・・。
今日中に帰れるかな?
東京でもう一泊になるのかな?
どうしようかと頭の中はぐるぐる回ります。
やっと搭乗手続きが開始になりました。
でも、千歳に着陸できなくて羽田に戻ってくるかもしれないことを了解済みになります。
乗れば、もしかしたら千歳につくかもしれませんから、搭乗です。予定よりも遅れましたが離陸しました。
悪天候で揺れるために、飲み物の機内サービスは中止となり、代わりにキャンディーが配られました。
千歳空港は、滑走路が一つしか使えないので順番待ちの為に、東北上空で旋回です。千歳空港の管制塔からの指示が出て、着陸できるようになりました。
着陸しても滑走路で順番待ちです。
上の写真は順番待ちしているときに写した駐機場です。
飛行機が駐機場につき、次のフライトまでの間に、飛行機に雪が積もります。その雪を飛ばしている所です。写真左側をよく見ると、はしご車のように長く伸びているものがあります。それで飛行機に積もった雪を飛ばしています。雪が取れたら出発です。飛行機が駐機場から離れたらすぐに、そこの除雪が始まります。除雪が終わったら、到着して滑走路で待っている飛行機が入り、駐機場から離れて出発を待っている飛行機が飛び立ちます。ですから、飛行機2機が向かい合う瞬間があります。
結局2時間遅れで到着しました。
札幌までのバスにもぎりぎり間に合い、高速道路が通行止めになっていますので、一般道路を走ります。
家についてやれやれ…
最近のコメント