思い出話し④ジャワ島で仕事
ジャワ島のブロラで、百貨店と雑貨店を経営していた曾祖母の弟(祖父の叔父)を頼って、祖父は10代でジャワ島に行きました。写真右上が、ジャワ島に行ったばかりの頃だと思います。下記のアドレスをクリックすると、詳しく書いたところに飛びます。
http://pikapikahikari.air-nifty.com/suka_sekali_indonesia/cat22912573/index.html
祖父はスマランの潮谷洋行に努めました。職場には石居太楼氏、太楼氏の叔父の久太郎氏がいました。シャツを中心に日本の綿製品の販売をしていました。その後はバタビヤ(現ジャカルタ)の安全商会バタビヤ支店で支配人をしていました。安全商会は名古屋にある陶磁器を売っている会社です。当時の名古屋の産業は、輸出用陶磁器と繊維です。
はじめは現在の独立記念塔の近くに住んでいましが、コタ地区に引っ越しました。当時は海岸側のコタ地区が栄えていました。
祖母は結婚のために札幌から2ヶ月かけてバタビヤに行きました。結婚式で初めて祖父の顔を見たそうです。
母は、日本人学校に馬車で通っていました。学校の運営資金を得るために母親たちは刺繍をし、売っていました。生徒の中に有吉佐和子がいます。
日本軍が仏領に侵攻し、日本への警戒感が高まっている昭和16年6月に叔母が生まれ、1ヵ月後に資産凍結になりました。戦争が始まるからと日本人は引き上げます。8月28日、祖父一家と石居太楼氏の妻子を含む日本人200人を乗せた船が神戸港に到着しました。祖父一家は叔母が生まれたばかりなので船室が当たりましたが、ほかの人たちは船倉だったそうです。祖母は甲板でおしめを洗っていました。写真下は引き揚げて来たばかりのころ、新聞の取材を受けた時のものです。ブロラで百貨店を経営していた叔父もいます。開戦前は、世界中にいた日本人が引き揚げてきましたので、このような人たちの人材を活用しようとの国の方針があったためと思われます。北海道新聞社の前身の北海タイムスには、東南アジアから引き揚げてきた人たちのインタビュー記事が連載され、現地の様子を伝えていました。
開戦後の昭和17年1月7日、祖父は戦地に行くために家を出ました。前日に撮したのが左上の写真です。祖父は第16軍(陸軍)軍政幹部で通訳をしていました。ジャワ島に住んでいましたから、言葉が分かるし地図が読めるので、ジャワ島上陸では先頭でした。チレボンで軍の仕事をし、解除になってからは当地で肥料製造の会社を経営していました。戦争が終わり札幌に戻ってきた時をおばは覚えています。軍服を着ていたそうです。
戦後は祖父母は働き、生活を支えました。戦前のジャワ島ではセレブの生活をしていたのですが戦争で丸裸になり、生活が落ち着いてきたのは昭和30年になってからです。
祖父は脳溢血で半身不随になり、最後は寝たきりになりました。祖母に看取られて自宅で息を引き取りました。
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