ダバオにおけるアジア太平洋戦争①開戦
1941年12月1日、御前会議で開戦が決定されました。
日・独・伊三濃く同盟を背景に英米依存から脱却するのを目的とした大東那共栄圏建設の雨の戦争だといい、アジアの解放をうたっていました。
ですが、フィリピンはアメリカ体制期ですが10年後の独立を約束されていましたので、当てはまりません。
12月8日、台湾西部から爆撃機43機が出撃し、ルソン島とダバオ湾洋上に停泊中の米水上機母艦とダバオのササ空港を攻撃しました。
開戦直後から在留邦人は収容所に収容されました。
収容所では男女別になり、虐待があり、食糧不足、トイレにも困るなど生活は厳しく、日本人が殺害されることもありました。
そのような中、日本人学校の先生は子供たちを集めて精神鍬やゲームをし、不安を和らげていました。
12月20日早朝、日本軍は三浦支隊、坂口支隊が海軍と共同でダバオ攻略作戦を決行し、他の部隊も歩調を合わせ、その日のうちにダバオ市街を占領し、収容されたz細粒邦人は順次開放されました。
21日は、その兵力を展開し、29日までに他の部隊も合流し、配備が完了しました。
20日は3か所で虐殺が起きて、邦人犠牲者は57人になりました。
収容されている間に略奪にあっていました。
損害は、日経栽培会社の記録によりますと、トラック、自動車、牛、馬を含む機械器具、商品、現金、建物消失です。建物消失はそれほどでありませんでした。
開放された在留邦人は報復に出ましたので、ダバオ領事館は告示を出しましたが、収まりませんでした。
収容中に略奪にあった財産の没収、犯人捜し、親米・反日のフィリピン人を逮捕し各地の小学校に収容しました。
その中には二度と戻って来れなかった人たちがいました。
開放された在留邦人は軍の指導も下、居留民団を結成し、日本人会は居留民団に結合され、日本軍から歩兵銃の貸与があり、軍と行動を共にするようになりました。
居留民団は義勇隊となりました。
フィリピン人は身の安全を図るために郊外に避難をしました。
翌年1月12日にダバオに群生が施行され、ダバオ市は傀儡行政となりました。
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