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フィリピン

2021.11.25

ライフヒストリーを聞いて

 私の研究テーマは「移民と戦争」をフィリピンのダバオ市でしていますから、戦前生まれの方たち数名にライフヒストリーを伺いました。何十年前のことですから記憶が断片的で、思い違いや記憶違いが有ったりしますが、その人の人生に何にも影響が無いんですね。

 しっかりしているなと思った人は、自分の進む道を自分で切り開いていました。子供の頃は周りの大人たちに、かわいがってもらっていたのだろうなと思った人は、一番大変な時に差し出された手を掴んでいました。
戦中は歯を食いしばって仕事をしてきた人は、戦後も歯を食いしばって生きてきました。
とっさに決めた事やじっくり考えて決めた事も、人柄が出ています。人は、人柄で生きていると分かり、それが自分らしい人生なのだと思いました。

 お話を伺った方はどなたも心に大きな傷を負っていました。
飛行機が飛んでいる音、花火大会の音でフラッシュバックする人がいました。
戦時中のことは辛くて話したくないと言いながら話をして下さった方がいました。
米軍がフィリピンに上陸し、ダバオの在留日本人は山中に逃げました。このころから帰国までの記憶が抜けている人もいました。
戦中の話を、戦後生まれの人にして、どこまで分かるのかなと思うと空しくなると言いながら語り続けている人もいました。

人生は尊いですね。


 

2015.12.13

映画『クロスロード』

海外青年協力隊の研修で同期になった3人が派遣された場所はフィリピンのルソン島にあるバギオ、ベンケット、イフガオ。それぞれの場所で、写真、ドジョウの養殖、助産師の仕事をします。
2年間の活動が終わって数年後、3人は東日本大震災の被害にあった東北で再開をします。研修所にいる時から反発しあっていた二人は、実はお互いに自分にはもっていないものを持っている相手を羨ましく思っていました。
たった2年の活動が何になるのかと疑問を抱いたカメラマンは、再び現地に行き、その後も続いているのを見てきました。

「ボランティアは偽善だ」と言っているカメラマンは、阪神淡路大震災時にボランティアで行った父を事故で亡くしているのです。その後の大変さが有るので、誰かの犠牲の上に成り立っているボランティアは偽善だと言っているのです。
そんな彼がフィリピンで2年間の活動をし、その後も見て来て、何か吹っ切れたところがあるように感じました。

あぁ~、
それにしても、
フィリピンに行きたいなぁ~。

2014.12.19

2年ぶりのフィリピン旅行

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2年ぶり5度目のフィリピンに行ってきました。
今回は今までと違う所を見たいと思いましたので、「ビラーンの医療と自立を支える会(HANDS)」のスタディーツアーに参加しました。

2年ぶりのフィリピンは、ショッピングモールやファストフード店が新たにできていて、道路を走るトライシクル、ジープニー、バスや乗用車は新しくきれいになっていて、経済発展を感じました。
その一方で、その恩恵にあずかれない人たちがいて、格差が開いているように思いました。

過去4回は平地ばかりでしたので、今回は山岳地帯。
山登りもしました。馬に乗ったり、バイクに乗ったりと体力的にきつかったけど、懲りていません。厳しい環境で生活している人たちと触れていると、自分の悩みや迷いはとるに足りないものだと思いました。
写真は、スペインがフィリピン侵略を開始したころの16世紀のゴングで、ビラーン民族の博物館に展示されていました。
今回の旅行は毎日が勉強になり、行って良かったです。
他の人たちがジェネラルサントスから帰国するときに私は分かれて、バスでダバオに向かいました。
ジェネラルサントスーダバオ間のバスは、ミンダナオ満喫簡単楽々お気楽コースなので、一度乗ってみたかったのです。
バスに乗って、外の景色を見ながら、今までのおさらいをしました。だから、感動はありませんでした。
ダバオでは、日本軍政期にダバオ市長をしていたオボサの家を発見したのもよかったことの一つです。

ミンダナオは昔から、民族宗教関係なく民衆レベルでの交流があり、今でも続いているのを感じました。

ポチッとよろしく!

2014.03.15

JICA北海道の報告会

JICA北海道主催の、ヨルダンとフィリピンの報告会に行ってきました。
ODAって税金が使われているのですが、何に使われているのかを視察し報告する人が「国際協力レポーター」です。昨年はヨルダンとルワンダにレポーターを派遣しました。北海道の人が行ったヨルダンの報告がありました。ヨルダンっていい所だわ。ローマ帝国時代の遺跡とか、キリスト教とイスラム教が共存していたり、日本のODAで作った博物館には死海文書が展示されてあるの。でも、その博物館はまだ一般公開されていないません。北大の観光学高等研究センターの先生が観光開発に入っています。日本のやり方の良いところは、お金を出して事業をすることを通して、現地の人が育っていっていることです。

Photo フィリピンは教師海外研修で行った先生の報告です。フィリピンの民族衣装や国旗をデザインした服を着た先生方のファッションショーの後はクイズです。フィリピン好きの...私は全部答えたいところですが、バロンタガログの素材がバナナともう一つが何かわかりませんでした。パイナップルだそうです。フィリピンで一番多いい姓は「サントス」だというのも分かりませんでした。日本の平均年齢は45歳。フィリピンの平均年齢は22歳
フィリピン人はボクシングが好きで、パッチャオの試合では視聴率が90%以上になるそうです。そういえばフィリピンに行った時に食堂に人だかりがありました。何をしているのかと思って店の中を見るとボクシングの試合をテレビで観戦していたのです。
先生方が撮った写真のスライドショーではBGMに「Welcame to the family」を使っていました。この曲には思い入れがあります。初めてのフィリピン旅行はママとてるてる坊主と一緒に行きました。この時、てるてる坊主は成長したんです。ですから、あれから9年が経ち、私がフィリピンとの関わりを形を変えながらも続けていけるのです。

2013.08.12

国籍を求めて~残留日本人と語る

Photo

戦前フィリピンには3万人の日本人が暮らしていました。

フィリピン人女性と結婚した日本人男性が多数いました。

アジア・太平洋戦争開戦前にほとんどの日本人が引き揚げずに残り、戦争中は積極的に戦争協力をしました。

終戦を迎え、アメリカは日本人を強制的に収容し、日本に送還しました。このときに、日本人父とフィリピン人母を持つ子供たちの多数はフィリピンに残りました。

終戦直後からフィリピンでは激しい反日感情のため、残された二世は身の危険がありましたので、親が日本人だとわかるものを捨てて、フィリピン人として暮らしてきました。

 

そこで、「フィリピン日系人リーガルサポートセンター(FNLSC)」では、戦争により身元が分からなくなった二世の身元を捜し、日本国籍取得(就籍)のための活動をしています。毎年身元調査をしている二世を日本に招いていますので、今年は集会に参加しました。それが「国籍を求めて~残留日本人と語る」です。今年は就籍が困難な人たちばかりです。

 

あらかじめ3つのグループに分かれていて、後半は語り合う時間です。

私が入ったグループには、このことをライフワークとしている教授がいらっしゃいましたので、一言、二言づつの解説がありました。それを聞いていると、私にバツがつけられている感じがしました。

就籍が認められないのって、こういう感じがするのですね。

アメリカ軍に日本人捕虜として捕えられた時の書類があるのに、日本人父とのつながりの証明にはならないので、就籍は認められない女性がいました。

 

教授が二世、三世と話しているのを聞いていると、私は甘い認識でしかないと思い愕然としました。

1回目の卒業研究では、ミンダナオ島のダバオで戦前日本人は開拓をし、マニラ麻を一大産業にしていたが、戦争ですべてが終わったまでをしました。

2回目の今回は、その後で、激しい反日感情でフィリピンに残った二世は身元が分からなくなったまでをしています。

これで一区切りつけようと思っていましたが、本当にこれでいいのかと考えています。

 

取材に来ていた新聞記者とも話をしました。

記者は記事にすることを通して、身元調査をしている人たちのことを市民に知らせます。

私は卒業研究をいい成績を取って、一人でも多くの人に読んでもらうのを目指しています。

来年以降は、私は何のために勉強するのかを考えていくのが必要だと思いました。


2012.10.09

ミンダナオの和平合意

Photo紛争が続いているミンダナオに新たな動き。

フィリピン政府とモロイスラム解放戦線(MILF)が、年内の包括的和平実現に向けた枠組みで合意。
2016年まで、
・イスラム教徒自治区廃止
・新自治政府バンサモロ(イスラム教徒の国の意)設置
・資源開発などの権限譲渡
・MILF正規部隊の解体

15日にアキノ大統領らの立会いの下、マラカニアン宮殿で、合意文書に署名。

でもね、何故か喜べないんだよね。
イスラム自治区を廃止して、バンサモロ設置はいいとして、MILF以外にも多数の武装集団があるからね。地域の有力者同士の対立もあるし、資源開発などの権限をめぐって、ひと悶着ありそうな感じがするし。今後の成り行きを追っていこう。

ワインを飲みながら、少し情報収集をしているんですから、平和な日本を実感しています。
ダッフィー君は、隠れミッキーの肉球を見せて、寝てしまいました。

2012.05.07

4回目のフィリピン旅行

Photo_18

ゴールデンウイークの少し前から9日間、「えいやっ」でフィリピンに行ってきました。今回は来年の卒論の準備のためですので、過去3回の旅行とはずいぶん準備の内容が違います。航空券とホテル2泊を初めてネットで購入しました。本当にこれでいいのかな、飛行機に乗れるかなと心配でしたが、無事に行って帰ってきました。国際線は大韓航空です。インチョン空港は使いやすいのと、帰りがダバオから札幌まで1日で済むからです。

私が管理しているフィリピン専用のブログ「ここは僕らのふるさと」にアップし始めていますので、ご覧になってみてください。

写真はダバオで一番大きなバンケロハン市場の八百屋さんです。


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2012.03.31

CD「いつの日か」

Cd
70年代にセンセーショナルなデビューをした高校生バンド「銀河鉄道」は、なぜかすぐに解散をしました。牧良夫さんはアメリカに住んで米国籍を取得し、本田修司さんはフィリピンに住んで、それぞれが音楽活動をしてました。解散から30年の時が経ち、二人は「GINTE2」を結成し、ファーストアルバム「いつの日か」をリリースしました。

聞いてみようかと思いましたので、CDを購入しました。全曲が肌に合うし、曲順がいいのです。買ってから毎日のように聞いています。じっくり聴いたり、BGMのように流していたり、夜に酒を飲みながら聞いていたりしています。

フィリピンに行くたびに訪問している養護施設「イースタービレッジ」の女の子ビビが、本田さんが作詞作曲した「12月の鐘」を歌っている動画を見つけました。ビビは頭の良さは父親譲りで、歌は声に伸びがあります。動画を貼り付けますので、是非お聴きになってください。


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2011.12.06

戦時中のダバオ新聞

フィリピン日系人リーガルサポートセンター」に行ってきました。

事務局長さんと少し話をしてきて、「ダバオ新聞」(昭和19年)を4時間半で読んで、必要な所を書き写してきました。もっと読んでいたかったのですが、時間切れです。

戦前2万人いた日本人は、戦争が始まっても引き上げずに、日本軍に協力をしました。その様子が分かります。軍用機を買うための献金をし、軍人の遺族や傷痍軍人の援護、生活支援などをする「ミンダナオ軍人援護会」が結成されていました。

日本時代は短かったですが、フィリピンの産業や農業などを壊滅に近い状態にしました。その為に、食料と衣服が不足し、マニラでは餓死者が出たほどです。
ダバオも食料不足はかなり深刻な様子がうかがえます。連載で「いかもの食いの話」の記事があり、昆虫、ミミズ、ネズミを食べるのを勧めています。

陸軍、海軍、日本大使館からの檄が飛びます。
「…アジアの解放と永遠に決する戦いである。…大東亜民族10億の結束…」
「日本人会を中核とし、完勝にまい進せよ。」

ジャカルタに行って戦時中に発行になった、マレー語と日本語で書かれた雑誌の復刻版を読んでいた時は、気持ちが動いて涙が出そうになったのですが、今回は、あまりの状況に感情さえも出てこないのです。

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2011.09.25

ダバオのおじい様

Photo


「ここは僕らのふるさと」をご覧になった方から問い合わせがありました。
おじい様がダバオで亡くなったとのこと。
山中を逃げていた時にゲリラに襲われて、亡くなったとのこと。
終戦半月後の出来事でした。

開戦の前年、ご家族を日本に帰しました。
そんなことのメールのやり取りをしていると、
私がおじい様に守られたような感じがしてきました。

大切な命、大事にしなきゃね。

写真は、ダバオにある日系人墓地です。

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