連載

2012.01.24

思い出話し⑥小学生の頃

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小学校最大のイベントにひとつが運動会です(写真左上)。父兄席には両親兄弟のほかにも父母や親戚も来ます。昼食はみんなでお弁当を囲み、午後の競技を観ます。お弁当は決まっておいなりさんでした。かけっこ、玉入れ、表現など種目は今とあまり変わらないようです。祖父母が観に来るのも保護者が参加する競技があるのも変わりません。
もうひとつの大きな行事は学芸会です。今の呼び名は「学習発表会」。高学年で何かを踊った記憶があります。子供たちが意見を出し合い、ぶつかり合いながら振り付けを決めました。
東京オリンピックが開催されたのも、私が小学生の時でした。先生に引率され、クラス全員で授業時間に30分ほど歩いて映画館に行きました。映画はとてもつまらなく感じて、こんなつまらない映画を観るのに、どうしてこんなに歩かなければならないのかと、重い足取りで帰ってきました。

右上の写真は丸井今井デパート屋上の遊園地です。札幌に古くからあるデパートで、市民は親しみを込めて「まるいさん」と呼んでいます。デパートにさん付けで呼んでいるのはここだけです。時々家族全員でデパートに行き、母が買い物をしている間、父と子供たちは屋上で遊んでいました。お昼はデパートの食堂です。お子様ランチのチキンライスに旗が立っていて、父が丸めてマッチ箱にしまって持って帰ります。
お買いものには、狸小路にもよく行きました。アーケードがついている商店街で、洋品店、雑貨店、オモチャ屋さん、八百屋、映画館、食堂と一通りのお店がありましたので、便利なところでした。父と映画を見に行き、帰りは食堂でお昼を食べたことがあります。

高学年になると、少女漫画雑誌「フレンド」を愛読していました。家の近くの商店街に貸本屋さんがありましたので、そこで雑誌を借りていました。確か、貸出期間は3日だったと思います。6年生のお小遣いは500円だったと思います。お小遣いをもらって「アルセーヌ・ルパン」を買い、仲良し4人組で回し読みをしていました。この頃のクラスの女子は、ルパン派とホームズ派がいて、どちらが魅力的かを言い合っていました。

内風呂がありませんでしたので、お風呂は銭湯です。中に入ってのぼせると脱衣所の椅子に座って冷まして、また入るを繰り返していましたので、良く鼻血を出していました。風呂上がりにコーヒー牛乳やフルーツ牛乳を飲むのが楽しみでした。蛇口に口をつけて飲んだ水は、今まで飲んだ水で一番美味しいですね。家族で行くと、男湯から父の「上がるぞー」の声が聞こえてきて、慌てて上がります。
冬の帰り道は、濡れた髪が凍り、パリパリになります。

写真左下は、町内会でバスを貸し切り、海水浴に行った時のものです。車がありませんでしたから、海水浴は列車でいきますが、帰りの混んでいること!長い列を作ってやっと列車に乗れたと思ったら、座る席がないのですから。ホントに疲れます。

右下の写真は温泉に行った時のものです。当時は札幌、定山渓に定鉄が走っていて、汽車に乗っていきました。定鉄は無くなり、豊平にあった駅は定鉄の事務所になっていましたが、それも無くなってしまいました。

冬の遊びはスケートです。「ガチャ」というのがあり、長靴にバンドで付けて滑ります。学校では3学期はスキーです。高学年は30分以上かけてスキーを担いで歩き、黒沢牧場まで行きました。一度、上から滑っていて曲がりきれなくて、木の杭に激突したことがあります。

男の子と外を走り回って遊んでいましたので、お人形さん遊びをした記憶がありません。担任の先生から、入試の科目以外の成績がいいと、この頃から言われていました。


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2012.01.22

思い出話し④ジャワ島で仕事

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ジャワ島のブロラで、百貨店と雑貨店を経営していた曾祖母の弟(祖父の叔父)を頼って、祖父は10代でジャワ島に行きました。写真右上が、ジャワ島に行ったばかりの頃だと思います。下記のアドレスをクリックすると、詳しく書いたところに飛びます。
http://pikapikahikari.air-nifty.com/suka_sekali_indonesia/cat22912573/index.html

祖父はスマランの潮谷洋行に努めました。職場には石居太楼氏、太楼氏の叔父の久太郎氏がいました。シャツを中心に日本の綿製品の販売をしていました。その後はバタビヤ(現ジャカルタ)の安全商会バタビヤ支店で支配人をしていました。安全商会は名古屋にある陶磁器を売っている会社です。当時の名古屋の産業は、輸出用陶磁器と繊維です。
はじめは現在の独立記念塔の近くに住んでいましが、コタ地区に引っ越しました。当時は海岸側のコタ地区が栄えていました。

祖母は結婚のために札幌から2ヶ月かけてバタビヤに行きました。結婚式で初めて祖父の顔を見たそうです。
母は、日本人学校に馬車で通っていました。学校の運営資金を得るために母親たちは刺繍をし、売っていました。生徒の中に有吉佐和子がいます。

日本軍が仏領に侵攻し、日本への警戒感が高まっている昭和16年6月に叔母が生まれ、1ヵ月後に資産凍結になりました。戦争が始まるからと日本人は引き上げます。8月28日、祖父一家と石居太楼氏の妻子を含む日本人200人を乗せた船が神戸港に到着しました。祖父一家は叔母が生まれたばかりなので船室が当たりましたが、ほかの人たちは船倉だったそうです。祖母は甲板でおしめを洗っていました。写真下は引き揚げて来たばかりのころ、新聞の取材を受けた時のものです。ブロラで百貨店を経営していた叔父もいます。開戦前は、世界中にいた日本人が引き揚げてきましたので、このような人たちの人材を活用しようとの国の方針があったためと思われます。北海道新聞社の前身の北海タイムスには、東南アジアから引き揚げてきた人たちのインタビュー記事が連載され、現地の様子を伝えていました。

開戦後の昭和17年1月7日、祖父は戦地に行くために家を出ました。前日に撮したのが左上の写真です。祖父は第16軍(陸軍)軍政幹部で通訳をしていました。ジャワ島に住んでいましたから、言葉が分かるし地図が読めるので、ジャワ島上陸では先頭でした。チレボンで軍の仕事をし、解除になってからは当地で肥料製造の会社を経営していました。戦争が終わり札幌に戻ってきた時をおばは覚えています。軍服を着ていたそうです。

戦後は祖父母は働き、生活を支えました。戦前のジャワ島ではセレブの生活をしていたのですが戦争で丸裸になり、生活が落ち着いてきたのは昭和30年になってからです。
祖父は脳溢血で半身不随になり、最後は寝たきりになりました。祖母に看取られて自宅で息を引き取りました。


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思い出話し③ひいおばあちゃん

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私が小学生の頃、曾祖母が祖父母の家に遊びにきました。とても照れくさかったのを覚えています。曾祖母は明治7年10月に福岡県築上町に生まれました。子供の頃、両親と一緒に開拓のために浦臼町に行きました。北海道には開拓の会社があり、大手2社のうちの北越植民社に入り農業をしていました。同じ北越植民社で近所に住んでいた曽祖父と結婚し、分かっているだけで9人の子供を設けました。

曽祖父も子供の頃、両親と一緒に石狩町に開拓に入りました。長男ではありませんでしたので親から受け継ぐものがなかったのでしょうか、一人で浦臼に行きました。当時は石狩川に汽船が就航していましたので、船に乗って行ったものと考えられます。浦臼町は面積が広く、後に月形町が分かれました。鑑別所の初代典獄(刑務所所長)月形潔が人望が熱い人でしたので、典獄の名前をとって「月形町」と命名されました。

戸籍謄本を見ると、曽祖父が石狩から浦臼に本籍を移動し、結婚届、次女の出生届けを数日間でしています。開拓が大変で届出は後になったのでしょう。

大正3年5月、6月、8月に子供が次々に亡くなりました。大正3年は大飢饉があり国の調査が入っています。浦臼に療養所が出来ましたので、飢饉か結核かもしれません。曽祖父母の悲しみを思うと切なくなります。

明治41年に曾祖母の弟二人がジャワ島に行き、ブロラでそれぞれ雑貨店、百貨店を経営しました。ブロラは石油が産出されます。二人のおじを頼り祖父もジャワ島に行き、仕事をしました。

世界恐慌があった昭和4年。翌年に曽祖父は月形町に開拓申請を出しています。この年から5年間は農作物の暴落でしたので、農家の収入は半分となり、「息の根を止める」事態となりました。無計画な開拓が原因ではないかと言われています。

曽祖父は昭和11年に亡くなりました。生涯を北海道開拓に費やした人生だと思います。
曾祖母は長生きをし、晩年は祖父母に引き取られ、昭和44年に亡くなりました。


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2012.01.21

思い出話し②昭和20年代後半

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北海道の開拓が始まり、今の豊平区福住に6軒が入植し、36軒になった時の人たちで「三六会(さんろくかい)」を作りました。神社、小学校、保育園、幼稚園、開拓記念館などの設立に尽力しました。じいちゃん、ばあちゃん達が苦労して開拓したところだからと土地を守っていきましたので、地下鉄の駅から徒歩10分の所に畑が広がっています。

開拓は、何もないところから始まりますので、畑仕事が終わって家に帰って最初に近くの川に水を汲みに行くことをします。不便ですので、住民が協力して西岡の水源地から水道を引きました。札幌市で水道を引く前のことです。今でも地中には当時の水道管が使われないまま残っています。ですから、私たちの親の代の人たちは、水の大切さを知っています。

夫の両親の本家は、それぞれ手広く農家をしていました。農地改革では土地を失ったほうです。母方の祖父はじゃがいもの改良では農協から表彰されました。福住小学校校歌の作詞は父方の親戚の人がしました。

夫が農家の長男として昭和26年に生まれました。赤ちゃんの時はカゴの中に入って、畑に置かれていたそうです。寒くななると藁で作ったゴザでかごの周りを囲って冷たい風から守ります。畑仕事をしていると、おしめは1日1回しか替えられなかったそうです。
冬になると家の隙間から雪が入ってきて、布団の上に積もっていたそうです。母は赤ちゃんの夫に毛糸で作った帽子をかぶせて寝かせていました。その毛糸は、羊の毛を刈って自分で紡いで糸をつくります。
何歳からかは分かりませんが、保育園に行っていました。保育園でのクリスマス会の写真は、昭和29年からあり、上の写真は31年のものです。小学校や中学校は近くにありませんでしたから、遠くまで歩いて通っていました。冬は吹雪になると馬そりで近所の子達と行っていたそうです。商店も近くにありませんから、歩いて30分以上の所まで買い物です。夏はアイスを買いに行って、融けないようにダッシュで帰ってきました。お腹が空いたら畑の大根や人参を取って食べていたそうです。近所でテレビが始めてきたのが、本家でしたので、皆で集まってみていたそうです。

夫が11歳の時に父親が交通事故で他界しました。母親は女手一つで子供3人を育て上げました。


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思い出話し①台所

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昭和32年、私が1歳の写真です(写真をクリックすると大きくなります)。壁はブロックを積み上げて作った6軒がつながっている市営住宅に住んでいました。この写真からは台所の様子がわかります。左側の写真では、台所付きの茶の間に両親と私が写っていて、後ろに台所があります。木の枠でできた流しにポンプがあります。右の写真には七輪が見えます。当時は床の上に七輪をおいて煮炊きをしていたのでしょう。すきま風が入るので、一酸化炭素中毒にならずに済んだのかもしれません。

煮炊きに七輪を使っていたあとには、燃料が灯油になり、芯を上げて火をつけて使っていました。芯が焦げて黒くなるとハサミで切っていきます。

敗戦後の混乱期が終わり、昭和30年は国民がゆとりを取り戻した年です。31年の流行語は「もはや戦後は終わった」で、その後は高度成長期に入り、台所に大きな変化がありました。

当時の流しは、木の枠か石をくりぬいて使っていました。排水口に気の破片が詰まったり、石のデコボコにゴミが付いたりしていましたので、暖かくなると腐ってにおいますので、台所は北向きにあるのです。
そこで、「暮しの手帖」の花森安治はステンレスの流しを開発しました。ステンレスは錆びないのですが高価です。大量生産して価格を抑えなければなりません。そこで、一枚のステンレスで、流し、調理台、ガス台をプレスして形を作り、台の上に乗せるようにしました。台の足で高さの調整をします。その改良型が今の流しです。
東芝で電気炊飯器を売り出したのもこの頃です。スイッチを入れれば自動的に炊き上がりますので、火の調整のために台所に張り付かなくても済むようになりました。
上水道が通ったので、ポンプが無くなり、蛇口をひねれば水が出てくるようになり、煮炊きの燃料はプロパンガスになりました。

この時期から、生活が大きく変化をしました。


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2005.03.05

それぞれの闘病生活:番外編

 6回に分けて書いた闘病生活。色々な話がありますわ。

夫の入院中

※「ここに何か出来ているから見てくれ。」
私は癌が転移して大きくなったのかと思い驚く。
「おとうさん、これ、脈打っているだけ・・・。」

※「あら、○○さん!」
東京のマラソンマンが退職前に、稚内から東京まで走ってきて、途中に立ち寄ってくれたそうです。出会った人たちに書いてもらっていると、サイン帳を出しましたが、夫は握力が無く書けなかったので、代わりに私が書きました。
マラソンマンは退職後に走っていたときの事を自費出版をしました。

祖母と浜松に行ったときのこと。

祖母の孫(私の従兄弟)の奥さんのお母さんが駆けつけてくれました。従兄弟の家に入るときに祖母は杖を付いているので、床が汚れると、入るのをためらっていると、お母さんが
「大丈夫ですから、どうぞお入りください。」
祖母「ここは、あんたのうちじゃない。」
ツボに入った!

ヘルパーさんに頼むこと

※(祖母から見ると)孫と次女と交代で祖母の付き添いをしたのですが、体力的にきついものがあり、長女に頼むと、長女も体力的にきついから、後半はヘルパーさんに頼んだとのこと。孫と交代することにして、ヘルパーさんへはキャンセルしました。

※冠婚葬祭互助会の葬儀会場に祖母の遺体を安置しました。線香やろうそくを使っているから、誰かが居て欲しいとの事。次女も孫もくたびれているから、長女に頼むと、出来ないからヘルパーさんに頼んだとのこと。会場の人が泊まりでいるので、ろうそくだけ消していれば大丈夫とのこと。ヘルパーさんにキャンセルしてもらい、次女と孫と荷物を運んだひ孫は帰りました。

※葬儀は疲れます。くたびれたから、火葬場は歩けないと、火葬場だけヘルパーさんに車椅子を押してもらっていた長女夫婦。

遺産を巡って

 夫のときは、相続の対象外の人がやんわりと言ってきましたので、やんわりと突き放しました。

 祖母の時は、相続の対象の人が、かなり悪どい事をし、言ってきましたので、もう一人の相続対象の人が、話には乗りませんでした。この先どうなるのか見ものです。

何とか一段落付いたわ。やれやれ・・・。

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それぞれの闘病生活⑥

葬儀後

 葬儀後は、年金、健康保険、名義変更等などの手続きがあります。それがまた大変。行く前に電話して必要な書類を揃えて行くのですが、ケースバイケースですから、それでは書類が足りないのです。一度では済まないんだ、これが・・・。一つ一つがややこしくて・・・。

 夫は在職中の死亡でしたから、会社がしてくれるところが多くて助かりました。祖母の時は叔母がしました。叔母でなくても出来るところは私が手伝います。

 一人暮らしをしていた祖母のマンションを引き払うのに、引越しの手伝いです。叔母は親戚付き合いを受け継ぎ、私はインドネシアを受け継ぎ、娘は日常生活を受け継ぎました。受け継ぐものの量は、欲の量かな?・・・という見方も出来ます。

 祖母の家を片付けていると、色々なものが出てきます。レコードやプレーヤーは無いのに、レコードスプレーがありました。タオルは箪笥の引き出しと衣装ケース一つ分づつありました。子供の頃の記憶にある爪切り。ホントにばあちゃんなんだから。

 戦前は10年くらいジャカルタに住んでいましたから、70年前のジャカルタや、こちらに引き上げてきてからは、米軍キャンプで写した写真から、最近までのものを見ながら、叔母から説明を聞きました。
 いつ、どこで、誰が写っているのか、説明を書いていて欲しかった。

 そんなかんなで、片付けは終わりました。

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それぞれの闘病生活⑤

最後のときが近づいて

 主治医から「あと1週間、2週間で急激な変化があります。」と言われてから2週間後に夫は個室に入りました。骨のカルシウムが解けて出てくるための意識障害、モルヒネの副作用、出血等、想像していたあらゆる障害が出てきました。酸素が体に取り込めないための苦しさは、この世のものとは思えない表情になります。
 意識がなくなっても、最後は細胞レベルでの戦いです。がくんと下がった血圧が持ち直したことがありました。

 12月に入院し、1月に入ってから退院した祖母は、おなかの激痛があり再度入院しました。2~3日で急激な変化があり、あと1週間、と言うことでした。連絡を受けて駆けつけたときには、呼びかけると返事をするのですが、会話は出来ませんでした。目がうつろで、どこを見ているのか分らなく、目が覚めているのか、眠っているのか分らなかったのですが、祖母が一番頼りにしている叔母が病院に着くと、目に力が出て、呼びかけに対する反応も違ってきました。
 むくみがひどくなり、足がパンパンになっていたので、「おばあちゃん、足をマッサージするかい?」と聞くと、首を縦に振りましたので、両足のマッサージをしました。これが祖母との最後の会話です。

 夫との最後の会話は何だったかしら?
「やめた、やめた。」
「なにをやめたの?」
「全部やめた」
だったかな?
このときは、ろれつが回らないというような感じで、何を話しているか分らなかったのですが、この時だけは話せました。
その後夫は死を受け入れたようです。

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2005.03.02

それぞれの闘病生活④

周りの協力

 90歳の祖母の子供は70代前半と60代半ば。体力的に限界ですので、孫の私が手伝うことになります。その私は車の運転が出来ませんので、荷物を運ぶときなどは娘や息子に頼みます。ですから、祖母はひ孫の世話にもなっているのです。小学2年生のやしゃごはまだ手伝える年齢に達していません。
 叔母は浜松に居ますが、2~3日おきに祖母と電話で話をしているので、祖母の生活を把握しています。遠くに離れていても出来ることはたくさんあり、親子の絆を強くしていけると知りました。祖母の従兄弟の奥さんは、よく気が付く人で、いつもかゆいところに手が届きます。祖母の従兄弟に当たるおじさんは、祖母が一番辛い時期を見てきているので、祖母をとても心配しています。
 祖母はインドネシアが生きがいですので、インドネシアの友達が数人居ます。入院中は日本人も来ますが、インドネシア人とタイ人もお見舞いに来ました。

 夫が入院中は、娘は子供を抱いて毎日病院に通いました。個室に入った1週間は私のお弁当を作って持ってきてくれました。息子はサッカー部に居てレギュラーで活躍していました。父母会の代表をしているお母さんが、全試合のビデオを届けてくださいました。最後1ヶ月間は力を振り絞って見ていたようです。
 職場の方は、支社長が病院に来たときに、提出した診断書に書かれている以外のことを知らせ、職場復帰は出来ないと伝えました。職場の人たちは支社長命令でお見舞いに来てくださいました。中国に転勤になった今でも支社長とは年賀状のやり取りをしています。

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2005.02.28

それぞれの闘病生活③

限りある命

 限りある命だと分ると、何かを残しておきたいと思うようです。息子の小・中学校とPTAで一緒になったお母さんは、生け花の先生だったから、花を生けてみたけど、すぐ枯れる。それでは紙粘土を作ってみましたが、形あるものは壊れる。だから、家族とのかかわりを大切にしていくことにし、子供との空間を大切にしていくことにしたと言っていました。

 夫は、病室から離れられません。握力が弱くなり字が書けませんし、物を持つことができなくなりました。食べたいものも食べられません。入院中の3ヶ月間で食べたものは、茶碗蒸し3口です。主治医は家に帰れるように治療をしてくださったのですが、結局帰られませんでした。したいことが出来るような状況ではないと思い知らされました。

 昨年9月に祖母が入院し、主治医から肺と肝臓に転移している。後半年と言われました。退院してしばらくは体力が無いようでしたが、11月中旬には元気になったようなので、様子を見に行きました。浜松に行きたいから体調を整えているというので、急遽浜松行きを決めました。叔母や従兄弟の家に行き、楽しいひと時を過ごし、「この年になって幸せだ。」と言っていました。(カテゴリーの国内旅行参照)
 帰ってきてから2週間くらいたち、発熱のため再度入院。主治医から長くはないと言われました。家に帰れるようにしてくださったので、おばが浜松から駆けつけて、滞在中に3人で会いました。食事をして「あーー、幸せ」。お茶を飲んで「あーー、幸せ」と言っていました。

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