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日本人移民

2011.12.06

大正・昭和初期の南洋航路(ジャワ島まで)

大正・昭和初期の南洋航路を調べています。調べ始めたばかりですので途中ですが、ブログを編集する都合上、アップします。資料が乏しいために情報量が少ないですが、分かったことがありましたら、その都度アップします。

大正期の南洋航路(定期航路)は、日本郵船、大阪商船、南洋郵船がジャワ島に行っています。このほかにもジャワ島に行っている船があるかもしれません。

○日本郵船
カルカッタ航路の延航として、大正7年4月に開設されました。船は横浜、名古屋、神戸、大阪、香港、バタビアに寄港して、日本から30日で到着します。大正11,12年ころは、神護丸、土佐丸、神盛丸の3隻のみの配船でした。客室は1等から3等までがあり、昭和5年の神戸からダバオ、メナド間の運賃は、1等208円2等136円、3等69円です。食事は、1等の朝食と夕食は和食で、昼食は洋食です、2等、3等は3食和食でした。

ジャワ航路はカルカッタ航路の延航として大正7年に開設され、横浜、名古屋、神戸、大阪、香港、バタビヤに寄港し、日本出発後約30日で到着になりましたが、昭和6年には配船が休止になりました。

○南洋郵船
1929年(昭和4年)には、神戸、スラバヤ間が就航していました。往路は、マカッサー、スラバヤ、サマラン、バタビア、神戸です。

○大阪商船

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2011.09.26

正雄ブロラへ

奥田正雄は明治38年4月3日に、父久松、母シエの次男として浦臼町に生まれました。

父久松は明治2年に生まれ、子供のころ父親を亡くしたため、父の兄弟に引き取られて、養父母と一緒に北海道 当別町に開拓に入りました。明治の終わりから大正にかけての地図に、久松の父、奥田長平の名前がありますので、久松は多分一人で浦臼に行ったと思われます。久松は三男でしたので、親から受け継ぐものがなかったのでしょう。
浦臼では、北海道を開拓する会社が大手2社のうちの一つである北越植民社に入りました。
そこで、北越植民社で働いていた人の娘、シエと結婚したのです。シエは明治7年に、父平塚甚六、母ミハの長女として生まれました。平塚甚六は福岡県築上町赤幡から、浦臼町に開拓に入りました。

シエの弟、一郎は明治41年、ジャワ島に行き、仕事を始めました。悦二郎はいつジャワに行ったか分かりませんが、明治41年以降だと思います。もしかしたら、一郎と一緒だったかもしれません。一郎、悦二郎は、ブロラで仕事をはじめました。ブロラは石油天然ガスが取れるところです。

そんな叔父たちを頼ったのでしょうか。奥田正雄もジャワ島に行きました。
北海道の開拓農民の田舎の息子が、背広を着て写真に写っています。叔父二人が支度を整えたのでしょう。写真の正雄は、まだ幼さが残っています。

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上の左側の写真の右に立っているのが正雄、正雄の横の女の子は一郎の長女です。
右側の写真では、左側が正雄、右側が山内友澄氏です。山内氏とは一郎一家とも親しかったようです。写真をクリックすると大きくなります。

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ブロラのMIKADO

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上の地図はジャワ島です。
地図の中央のジャワ海に面しているスマランからブロラまでは大きな道路が通っています。
下の地図にブロラが載っています。地図をクリックすると、拡大されます。

2_3

明治41年、平塚一郎が北海道からジャワ島に行き、ブロラで百貨店を経営しました。夫婦で日本製品を広めるために貢献しました。
一郎の弟、悦二郎もブロラに行き、雑貨店を経営しました。大変な努力と準備をし、大正7年7月10日無事開店しました。裏には大きな市場があり、立地条件は良さそうですね。下の写真は、住宅兼食料品店の第二ミカド商会です。お店の前で椅子に座っている人の右側から、白石氏、高井氏、主人、?、中村氏、松本氏です。このほかに現地の人4人が店員です。

Mikado

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2011.09.22

バタビヤの日本人学校

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この写真はバタビヤ(現ジャカルタ)の日本人学校です。
日本人学校として日本から認められるためには、校舎、グランド、生徒数、教師などの規定を満たさなければなりません。バタビヤでは三宅哲一郎総領事の熱意により、横浜正金銀行が学校設立に合意しました。
在外の日本人学校としての校舎がなく、日本人会に併設されていました。
運営資金を得るために、お母さんたちは刺繍をして、作品を売っていました。母は、祖母が刺繍をしている記憶があるといっていたのは、このことかもしれません。
生徒は40人くらいだったといいます。大抵の子供たちは馬車に乗って通学をしていました。この写真に写っている子供の中に、有吉佐和子、財界のトップになった人、文化勲章を受章した人がいます。

蘭領(インドネシア)に日本人学校は7校あり、設立年は、1921~25年に1校、1926~1930年に4校、1936年~1940年に2校です。

2008年にジャカルタの日本人学校を訪ねた時、教頭先生が事前にバタビヤ時代の日本人学校を調べて下しましたが、まとまった資料がないとのことでした。

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