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歴史

2010.02.01

ジャムーの研究開発

 インドネシアの庶民に「家庭薬」として古くから親しまれてきたジャムー。痩身、腹痛、のどの痛み、滋養強壮など、期待する効果により調合して服用します。インドネシアには3万種以上の植物があり、約1,000種が薬草で、製薬として利用されているのは400種類。ブラジルに次ぐ豊富な資源です。

 市販されているジャムー商品は、医薬品食品監督庁が原料を調べ、安全性を認定する「ジャムー・マーク」を取得していましたが、医療機関で利用されることはありませんでしたし、化学薬品を混ぜるなど品質が低い物も出回っていました。

 インドネシア政府は、ジャムーの研究開発を推進しようと、中国の専門家を招いて2004年に、医薬食品監督庁とインドネシア科学院(LIPI)が共同で、初のセミナーを開催し、両国が合同で伝統薬を開発していうことで合意しました。特に、①伝統薬の広範な共同研究 ②国内に流通する偽造品に関する情報交換 ③インドネシアの薬草を利用した漢方薬の開発の3項目を挙げました。セミナーで中国側は、漢方薬の薬草の農場、製造、流通、研究状況などを紹介し、インドネシアの研究者や業者の注目を集めました。

 翌年ジョグジャ王宮でジャムー展を開催し、2007年には政府がジャムーを「伝統薬」と宣言。国内総売り上げが7兆ルピアになりました。2008年に医薬品食品監督庁が違法ジャムーを回収、2009年の国内総売り上げは8兆5千億ルピアに達しました。

 政府は2007年に他国にコピーされないように「ジャムーはインドネシア独自の伝統薬」と宣言。2009年バンコックで開催された「ASEAN伝統医療国際会議」に代表団を派遣し、各国の教育機関や研究所、実業家との協力を強め、ジャムー産業をインドネシア独自の産業として発展させることを表明しました。

 世界的な健康ブームでジャムーは注目され始め、エステ用品などとして、中国、韓国、インド、ヨーロッパなどに輸出されています。外国の製剤会社がインドネシア産の薬草を使用した健康食品などの特許権を取得したり、中国の大手漢方薬会社が進出しているので、保険証広報局は国内のジャムー会社の保護を優先する姿勢を示しています。

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2009.07.19

インドネシアの紙幣⑥

100000ルピア

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表:スカルノとハッタ

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裏:国会議事堂とインドネシア地図

スカルノ

本名:Sukarno

1901~1970

民族主義運動、独立運動において大きな足跡を残した政治家。初代大統領。

ハッタ

本名:Mohammad  Hatta

1902~1980

民族主義運動、独立運動において主導的役割を果たした。初代副大統領。スカルノとは対照的であり、鋭い批判者でもあった。

スカルノとハッタ

太平洋戦争が始まり、ジャワ島上陸した第16軍司令官の今村均は、オランダに囚われていたスカルノとハッタを解放し、民生の安定の為に協力を要請。

日本敗戦の2日後、1945年8月17日、スカルノとハッタは独立を宣言。それを認めないオランダが攻めてきて独立戦争となる。1949年ハーグ協定により独立国家としての第一歩を踏み出す。

インドネシアの紙幣⑤

50000ルピア

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表:ングラライ将軍

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裏:バリ島ブラタン湖

ングラライ将軍

本名:Gusti Ngurah Rai(グスティ ンクラライ)

1917年バリ島生まれ。1946年没。

国軍の前身である人民治安軍の将軍(中佐)。インドネシア独立戦争では、バリ島のゲリラ戦術で8ヶ月間戦い、オランダ軍補充部隊の兵舎を襲撃し、成功を収めた。その数日後、オランダ軍と遭遇し玉砕。この時、オランダ軍に送った返答文書の最後には「Merdeka atau mati」(自由か死か)と書かれてあった。この戦闘には12人の残留日本兵も含まれていた。

バリ島のデンパサール空港は、彼の名をとって「ンクラライ空港」と名付けられた。

インドネシアの紙幣④

20000ルピア

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表:イスカンダル・ディナタ

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裏:西ジャワの紅茶農園

イスカンダル・ディナタ

インドネシアの英雄。

詳しいことは只今調べています。分り次第アップします。

インドネシアの紙幣③

10000ルピア

表:スルタン・マフムド・バダルディンⅡ世

裏:南スマトラ・パレンバンの伝統家屋

この紙幣は、持っていないために、写真をアップできませんでした。いつの日かインドネシアに行ったときに、持って帰ります。

スルタン・マフムド・バダルディンⅡ世

詳細は調べている最中です。分り次第アップします。

スマトラ島、パレンバンの空港は、彼の名にちなみ「スルタン・マフムド・バダルディンⅡ世」と名付けられた。

インドネシアの紙幣②

5000ルピア

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表:イマーム ボンジョール

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裏:西スマトラ州タナ・ダタールの機織をする女性

イマーム・ボンジョール

本名は『MUHAMMAD SYAHAB』。

1772TanjungBungaに生まれる。父はイスラム教師。

西スマトラでオランダ軍に抵抗し、捕らえられる。彼の釈放を要求する運動が激しく、最初はブキット・テインギーの監獄に収容されていたが、彼を西ジャワのチアンジュールに移送さた。イスラムの教師として教えることがオランダ軍により許可されたが、生徒は増え、他の地方からも集まった。オランダ軍は影響力に脅威を感じ、アンボンに移した。そこではオランダ軍はわずかな生活費を渡すだけで、一切の活動を禁止した。その後はスラウエシ島のマナドに移され、一農民として生活を送り、1864(92)に流刑のまま亡くなった。

インドネシアの紙幣①

1000ルピア

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表:キャプテン パティムラ

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裏:マイタラ島とティドレ島

大航海時代には香料諸島として知られたマルク(モルッカ)諸島にあります。

キャプテン パティムラ

1783(?)年~1817年。

本名はトーマス・マツレイシ。

キリスト教徒で英国の傭兵をしていたが、英国統治からオランダに返還されるときに反乱を起こし、サパルア島の砦を占拠した。捕らえられたオランダ兵を処刑にした際にオランダ指揮官の子供を首刈り族の部下から守ったことから、「パティムラ(優しい人)」とあだ名が付いた。

古い写真

お盆におばあちゃんのお墓参りに行ったからでしょうか。やたらおばあちゃんが懐かしいのですから。

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祖母が亡くなったときに持って帰ったアルバムを出してみるのですが、大正生まれの祖母のはずが、明治44年の写真がある。インドネシアでお店の開店をしたときのものらしい。お店の名前が「MIKADO」
写真の台紙の裏に説明が書いてあるのですが、準備が大変だったらしいという事しか分りません。日本語が読めなかった。

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おじいちゃんが仕事をしていたお店です。ジャワ島にいったばかりのときに勤めていた所か、その後独立した店かは分りません。おばあちゃんに聞いておけばよかった。

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ボロブドゥールの遺跡にも行っているようですが・・・
おーーい、おじいちゃん、世界遺産だゾ。
そんな所に登っちゃいけないよ。

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日本人学校の生徒と母親。
この時代、日本人が沢山住んでいたのかしら。

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紀元2600年の大運動会。
やっぱり沢山住んでいたみたい。
右下の写真にはインドネシア人女性も写っているから、お手伝いさんなのかしら?

おばあちゃんの戸籍謄本を見ると、ジャワ島バタビヤ市クレコット街に住んでいたようです。バタビヤはジャカルタの昔の名前。
ジャカルタに行って、昔祖母が住んでいた所に行ってみたい。
ジャカルタには最近まで札幌に住んでいた家族が帰っていったから、その人にも会いたいし、日本人会にも行ってみたい。
来年にミンダナオに行く準備をしているから、この次はインドネシアにしようかな??

行きたいな。
ジャカルタに行きたいな。

昭和16年の新聞

東南アジアがヨーロッパ時代だった頃、まだ国家の枠組みが出来ていなくて、宗主国は何処なのかで言っていました。インドネシアは蘭領東印度です。独立してからインドネシア共和国になりました。今のジャカルタは当時はバタビヤと言っていました。現在のコタ駅のほうです。独立記念塔のある辺りはウエルトフレーデンと言っていたようです。

祖父母一家が帰ってきたと思われる昭和16年の新聞縮小版を見ました。新聞の見出しで「蘭領」と書いてあるのを拾っていきます。引き上げてきた当時の様子が分るのではないかと思ったからです。

朝日新聞を見ていると、ジャワ島やフィリピンからの引き上げ船は神戸港に行っているようなので、大阪毎日新聞も見てみましたら、ありました。

一つの船で200人くらいが乗船していたようです。食事の用意、病人が出たら看護をしたりと、10人、20人くらいの班を作って行動をしていました。船の中で亡くなった方がいて、親族に遺品だけが渡された方がいました。

子供達は日本が始めて。下船のときははしゃいでいて、それを見ていた母親は涙を流していました。

祖父母一家が引き上げてきた時は3人目の子がまだ赤ちゃんだったので、船室だったけれども、船倉だった人が沢山居た。甲板でおしめを洗っていたと祖母が言っていました。

「戦争が始まる」というので引き上げてきたと祖母は言っていましたが、そんな簡単なものではなかったようです。

3人目が生まれた直後に、輸入と輸出の規制が始まり、邦人が経営する商店のほとんどは閉店に追い込まれるであろうという記事。祖父はバタビヤで小売業をしていました。

邦人に対しての資産凍結があり、銀行から預金が引き出せなくなったため、引き上げることも出来なくなり、交渉して緩和され、日本に引き上げるくらいのお金は用立てらるようになりました。

当時の新聞からは戦局が激しくなっていく様子が伝えられています。

「フィリピン、ミンダナオ島のダバオを開拓したのは日本人なのに、フィリピン人はその恩を忘れている」という記事が載っているのを見て、同じ記事を読んでも当時と今とでは受け止め方が違うのだなと感じました。