11月1日付「カトリック新聞」の「司祭年」インタビューに、祐川神父様の記事が掲載されました。新聞記事をクリックすると、大きくなります。
夢は「日本宣教会」
私が1歳の時、管理人の仕事も兼ねて家族で元町教会(北海道・函館市)の敷地内に引っ越しました。結核の父を心配して声を掛けてもらったのだと思います。鍵かけ、鐘ならしなどの仕事をしていて、18歳までそこに住んでいました。
5人きょうだいの下から二番目。木登りが好きで、司祭館前のねむの木に登っては、神父様方と話したりしていました。フランスのお菓子をもらったり、珍しい物を見せてもらったり。教会は複雑な形をしているので、皆でかくれんぼや缶けり遊び、野球、と「遊び場」でしたね。
待者がいないと、すぐ呼ばれて、していました。教会の高い屋根に上って怒られていたことも多々ありました。常に誰かが家に出入りしていて、いろいろな人生模様を見ることもできたと思います。周囲に「教会の子ども」と思われ、自分はなぜキリスト教か、なぜカトリックなのか、子どものころから考えていました。
でも、自分が司祭になれるとは思わなかったですね。知っている司祭はみんなフランス人だったから。
大学時代、埼玉で漠然と英語の教師を目指していましたが、そのころ、アポストラートス(神学生の司牧実習)で草加教会(埼玉)に来ていた今の谷(大二)司教、塩田(恵)神父に出会いました。バザーで一緒にチンドン屋さんをやったりして、とにかくハチャメチャな人たちだったから、教会に行くのが楽しみになって。
主任の野上(貢)神父は、私のアパートに革ジャンを着て登場。最初、新聞の勧誘と思って取り合わずにいたら神父と知り、びっくりでした。頼まれて、私が通っていた大学のカトリック研究グループに名前だけ貸しました。次の主任の猪俣(一省)神父(いずれもさいたま教区)には、一緒に飲んだりしながら、当時関心のあった教義のことなどを尋ねていました。弱さがあっても司祭だったり、司祭を目指していたり。そうした姿に引かれ、召命を考えるようになりました。
叙階後、しばらく暮らしたフィリピンで人々のために何かできないかと思っていて、ミンダナオ島キダパワンに児童養護施設「イースタービレッジ」が出来ました。福支局を通して来る子どもたちは暗い顔をしていますが、地獄に行ったら天国だった、と思わせるような施設にしたい。二十数人の子どもたちと一緒に暮らし、泣き、笑い、歌い踊り、心触れ合ううれしさは表現できません。
いつか、日本宣教会を作るのが夢です。日本に来たパリミッションも、余っていた中から人を派遣したのではありません。国内の宣教のためにも、外との交流などが活力を与えるヒントになると思っています。
===「神父燦燦」が本に===
カトリック新聞に連載されていた神父さんに、「人」に掲載された神父さんを合わせて、2010年9月に出版になりました。
『カトリック司祭58人に聴く 神父燦燦』カトリック新聞社編
A5判並製208頁
定価1260円(税込)
ISBN978-4-902211-65-8
発行元
教友社
275-0017 千葉県習志野市藤崎6-15-14
TEL 047・403・4818
FAX 047・403・4819
URL http://www.kyoyusha.com

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