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地域社会・歴史

2015.12.22

映画『クロスロード』

・ ・ ・

フィリピンを舞台にした青年海外協力隊の映画を観てきました。
研修所で同期だった3人は、ルソン島のバギオ、ベンケット、イフガオにそれぞれ派遣されます。

1900年代初め、フィリピンを領有したアメリカはバギオを避暑地として開発をしました。
マニラからの道路建設のベンケットの所を日本人移民が行いました。
ですから、この辺りは100年以上前から日本人が行っていました。道路工事だけではなくて農業もしました。予告編にも出てきますが、映画ではこの時に日本人が栽培していたイチゴが市場に山積になっている場面が出てきます。
イフガオでは戦争の傷跡が出てきます。
現在、青年海外協力隊は現地に行き、住民の側に立って活動をしています。
映画では、民間レベルでの日比交流の110年くらいをザックリと眺めることもできます。
良くも悪くもフィリピンに行って日本人が行ったことは、後に残っています。
それでもこの100年間、日比交流は良くなってきていると思います。

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2015.07.06

アキノ大統領訪日

6月2日から5日までアキノ大統領が国賓として訪日していた3日、BSジャパンを入れたら、ちょうどニュースが始まったばかりで、アキノ大統領の独占インタビューが有るとのこと。
フィリピンが私を呼んでるぅ~♪
テレビで見るアキノ大統領は知性あふれるイケメン。
写真よりもずっといいわぁ~♪♪

3日夜は宮中晩さん会、4日は首脳会談がありました。
アキノ大統領が内政で力を入れたのが経済発展で、以前は3パーセント強の伸びだったのが、現在では6パーセント強と2倍になっています。
私が大統領の業績で一番いいなと思うのは、健康保険の改革です。
フィリピンでは公務員とその家族が強制的に加入するものと、国民皆保険を目指したフィリヘルスがありますが、人口の4割いると言われている貧困層は保険の支払いが出来ないので加入できないでいました。...
そのような人たちのために、フォーピースが出来ました。
昨年11月にミンダナオ島に行ったときに、イスラームの女性たち(医師や看護師)の医療チームの巡回診療の見学をしました。フォーピースを利用しているとのこと。アキノ大統領が作った制度なので、大統領が変わったら無くなるのではないかと心配をしていました。
大統領の再選は禁じられているフィリピン。アキノ大統領の任期はあと1年です。
大統領が変わってもフォーピースが続いていますように。

2011.08.19

イスラム社会のブログ

Fh000030この写真は、06年にミンダナオ島の、サランガニ州ディアス村に行った時のものです。
この村はイスラーム教徒の複数の民族が住んでいます。クリンタンが聞きたくて、一度、イスラームの地域に行ってみたくて、実現しました。

クリンタンの演奏で出迎えてくださって、長い時間演奏してくださり、昼食はごちそうになりました。
内面も服装もとっても開放的で驚きました。
フィリピンは日本と同じ双系社会です。双系社会はジェンダー規範が緩くなるんだって。

最近発見した、すごいブログを紹介します。

ミンダナオのイスラム社会の事を書いてあります。

↓ここです。
http://kulintangmusic.blog135.fc2.com/

とにかく中身が濃くて凄いんです。

2010.02.09

書籍「バナナと日本人」

鶴見良行 著

「バナナと日本人」

岩波新書 1982年

ミンダナオを知りたい人 必読の書です。

Cimg2602

フィリピンは350年間スペイン時代を迎えていました。他の東南アジア諸国がそうであったように、ヨーロッパ時代に搾取する・されるが入った二重構造が出来上がりました。その中でもシンガポールとブルネイが先進国並みのGNPを達成しました。シンガポールは貿易を完全自由化し、ブルネイは人口が少なく石油を持っているからです。

第2次世界大戦が終わり、独立を果たした東南アジア諸国は、この二重構造を埋めるべく努力をしてきましたが、解決しないまま今日まで来ています。政治が未熟なのではなく、搾取する・されるが入った二重構造を埋めるのが、いかに難しいかを物語っています。

日本のスーパーでフィリピン産バナナが安く売られているのはなぜか?ミンダナオの人たちが働けども働けども暮らし向きは一向に良くならないのはなぜか?

この数年、東南アジア諸国では、貧困率が減少しているのに、フィリピンだけ増加し、特にミンダナオは深刻です。

スペイン時代から続いている負の鎖が、幾重にもミンダナオを縛り付けているなと感じました。

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2009.12.16

マギンダナオ州統一選挙前の事件

マギンダナオ州副町長の妻が選挙に立候補の届出をしに行った時、同行した副町長の親戚、報道関係者らが拉致され57人を殺害された事件が11月23日に起きた。

26日、政府当局は殺害を指示したとされる、ダトゥウンサイ町のアンダル・アンパトゥアン町長を拘束。私兵団の武装解除にも着手。

12月1日 私兵団に57人殺害を提示したとしてアンパトゥアン町長を殺人罪で起訴。

3日 イスラム教徒自治区(ARMM)のルディ・アンパトゥアン知事、非常事態宣言と内務自治長官への定職権限付与は違憲として最高裁に提訴。

4日 マギンダナオ州一部の地域に戒厳令布告。

5日 戒厳令布告を受け、同州に国軍部隊を増派。アンダル・アンパトゥアン前知事とサルディ・アンパトゥアンARMM知事らを拘束。

7日 サフロンガ元下院議長らが戒厳令と人身保護礼状請求権停止措置の無効化を求め、最高裁に提訴。

9日 上・下両院合同議会が、戒厳令と人身保護礼状請求権停止措置の執行可否審議を開始。法務省検察局、マギンダナオ州前知事ら24人を反乱罪で起訴。

12日 政府、戒厳令と人身保護礼状請求権停止措置を解除。違憲性がある裁判の敗訴を避けるためとの見方がある。

14日 元上院議長ら、重大な憲法違反だとし、大統領権限の乱用を避けるためにも戒厳令裁判の審理継続と判決言い渡しを最高裁に呼びかける。

アンパトゥアン知事ら5人は、ジェネラルサントスの国家警察施設に収容されている。警官10人が24時間体勢で警備をし、監房は50平方メートルほどの広さで、来客用のいす、有線放送が入るテレビ、扇風機などがある。携帯電話の使用は禁止。

<民間人志願組織(CVO)>

アンパトゥアン知事は、イスラム急進派、モロ・イスラム解放戦線(MILF)の恐喝や嫌がらせから守る為に、内務省の了承の下、地方自治体向けの交付金(年間約30億ペソ)を使って武器の調達にあてていた。

マギンダナオ州内で活動したCVOは総勢2300人。武器を手にするCVO構成員は、国家警察による訓練やセミナーを約一ヶ月間受け、CVOの活動に参加する。軍・警察がMILF掃討作戦を実施する際は、周辺の地理に詳しいCVOが作戦に加わり、軍・警察の先兵としてMILFと戦ってきた。

CVOの構成員24人が、国軍などの呼びかけに対して10日に一斉投降し収容された。

家族を養うのに充分な収入を得れる仕事がなく、CVOに志願したと異口同音に語っている。イスラム急進派、MILFと対峙し、最前線で武器を取るなどして、月給3500ペソを得る為に命がけの戦いを余儀なくされている(農民の収入は月約500ペソ)。24人全員は小学校を卒業していない為に、読み書きも満足に出来ず、公用語のフィリピノ語・英語も理解できない為に、捜査官はマギンダナオ語との通訳を介して取調べを行っている。CVOに志願すると、国家警察による訓練やセミナーを受けた後参加することになっているが、実際はライフル銃を扱え、アンパトゥアン一族に忠誠を誓えばCVOになれる。

小学校4年生で中退した17歳の男性は、15歳でCVOに入った。MILFとの戦闘も経験した。既に子どもも数人いて、養っていくにはCVOに入るしかなかった。ライフル銃を持つ少年兵の姿が、そこにはあった。

教育水準の低さなどによる貧困という厳しい現実がある。

-以上 連日の日刊マニラ新聞より-

ミンダナオの紛争は、イスラム教徒とキリスト教徒の対立とよく言われるが、複雑なことを簡単に言ったこと。ミンダナオ島には元々住んでいた人たちがいて、そこに他の島から移住してきて、対立が生まれる。それが今では、イスラム同士の対立になってきている。

ミンダナオ島の紛争が無くなることを祈りつつ、この記事をアップした。

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2008.09.17

キダパワン市スダピンバランガイ

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キダパワン市にあるスダピンバランガイ

1737世帯、8,000人位の規模です。

組織は、一番上がバランガイキャプテン。その下に、カガワッド、セクレタリー、トレジャラー、レコードキーパー(記録係り)、バランガイキャプテンの秘書がいます。

カガワットは7人いて、教育、健康問題、農業、財政、平和と秩序、健康予防促進、会計の担当に分かれています。

もめごとは、セキュリタリーからレコードキーパーに行き、最終的にバランガイキャプテンかカガワッドに回されます。もめごとで多いのは、借金、夫婦喧嘩の仲裁、夫婦以外の喧嘩仲裁。バランガイの範囲を超えて警察になる場合は、書類を出す。大きな喧嘩は警察がすぐ来る。

バランガイホールの裏に、ヘルスセンターがあり、隣にはディケァセンターがあります。

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右側は新しいディケァセンターで、左側は古い方です。事務所にするとのこと。

新しい方のディケァセンターでは、子供達の保育をしていて、中は可愛くしています。「健康問題」では、ヘルスセンターを管理していて、予防接種、妊婦さんへの指導等を行っています。

平和と秩序は、市民ボランティアが平和を監視する見張り役です。

農業は、生産者が入っていて、情報交換をしています。

毎年927日~28日はバランガイ設立を記念して、バランガイフェスティバルがあります。バスケ、ゲーム、食べたり、オカマショーもあります。

バランガイキャプテンのお給料は7,200ぺそ。

収入源は、住民税、市からは年1回多少の援助金があります。バランガイでお店を持っているので、その収益も収入になります。地方自治体から中央政府に申請しても、お金は下りてきません。ODAから多少の資金があります。

フィリピンの人にとってバランガイはごく普通のことなのでしょうが、コミュニティーとしての活動と、行政の末端を担う活動と両方しているバランガイは、すごいなと思いました。

2008.08.07

世界の平和度&幸福度

   <世界平和度ランキング>

英国の「エコノミスト・インテリジェンス・ユニット」が世界平和度ランキングを発表しました。

平和度を「対内的な平和」60%、「対外的な平和」40%の比率で計算しています。

2006年までの6年間の対外的紛争、国内紛争の数、組織的犯罪による死者の数、難民の数、暴動発生の頻度、テロ発生の可能性、武器入手の容易さ、人権が尊重されているか、政治的安定性があるかなど、24項目を5段階でランク付けをして評価をしました。

調査対象国と地域は140

1位 アイスランド

2位 デンマーク

3位 ノルウェー

4位 ニュージーランド

5位 日本

6位 アイルランド

23位 香港

29位 シンガポール

32位 韓国

35位 ベトナム

38位 マレーシア

44位 台湾

67位 中国

68位 インドネシア

91位カンボジア

97位 米国

113位 フィリピン

118位 タイ

126位 ミヤンマー

131位 ロシア

133位 北朝鮮

136位 イスラエル

137位 アフガニスタン

138位 スーダン

139位 ソマリア

140位 イラク

   <世界幸福度ランキング>

英国シンクタンクのnefによる、平均寿命や生活満足度などで評価。数字の出し方は、

HPI=生活満足度(自己申告)×幸福時の寿命÷使った土地や資源

他にも幸福度を出している数字があるのですが、この数字を紹介します。

1位 バヌアツ

2位 コロンビア

3位 コスタリカ

4位 ドミニカ

5位 パナマ

12位 ベトナム

17位 フィリピン

23位 インドネシア

31位 中国

32位 タイ

44位 マレーシア

84位 台湾

88位 香港

91位 カンボジア

95位 日本

102位 韓国

109位 ラオス

131位 シンガポール

150位 米国

172位 ロシア

皆さんは、どう感じますか。

2008.03.16

ダバオと日本人①

1888年(明治21年) マニラ市に日本領事館が開かれた。

1889年(明治22年) 在留日本人36

1893年(明治26年) 在留日本人6人になったため日本領事館閉鎖

1897年(明治30年) 日清戦争で台湾が日本領になったため日本領事館再開。在留日本人15人。

1898年            フィリピン米領に。日本人2030人。

この頃までに日本人が最も多くフィリピンに渡って行ったのは1573年から1614年、天正年間から慶長の末期までで、一時期マニラには3000人もいたと伝えられていますが、この間に多数の人が渡航したとは考えにくく、1000人程度ではないかというのが古川殖産株式会社の古川氏の見方です。

<アメリカによる開拓>

ダバオ州はスペイン時代にはほとんど開拓されず、1898年米領となりサンボアンガ軍司令官のレオナード・ウッド将軍はダバオ州は肥沃で未開地の多いことを知りダバオ開拓を部下に勧めました。ダバオ湾沿いに約50人が約30箇所に入ってマニラ麻の耕作者になりました。ウッド将軍は1921年から1927年まで幾度となくダバオを訪問し、マニラ麻の直接輸出、ダバオ開港の時期を早めたりとダバオ州発展に尽くしました。米国人は大変な努力をしてきたのですが、報いは小さく終わりました。

<ベンゲット道路工事>

米西戦争の結果、フィリピンは米領となり、熱帯のフィリピンを米国人が治めるのには避暑地が必要と考え、バギオに道路をつけ避暑地を開くことにしました。フィリピン労働者500人、支那人500人、白人200人、で道路工事を始めたのですが、2年間で150万ペソを使っても一向に進まず、工事はもっとも困難な場所に来たため200万ペソの予算でこれに当たることにしました。当時はアメリカ本国では日本移民排斥の声が高かったのですが、工事監督のケノン少佐はカリフォルニアでの日本移民の能力を知っていた為マニラの帝国領事館を通じ、日本移民を入れることにしました。少佐の要望は、道路開設労働者900人、石工100人、監督20人、英語通訳約1人、及びその助手1人の合計1022人でした。

比島政府から移民会社に移民一人当たり拾円の手数料を支給されていたので、争奪戦が起きました。他の移民会社の悪い評判を言ったり、事実以上の誇張したり、実際は竣工が目前に迫っているのに工期はあと一年あると言ったり、移民の質を何も考えないなど、後の責任を持たず唯人数だけを送り込むことをしていました。

渡比した日本人は1903年(明治36年)に男子475人、婦女子446人で婦子軍(からゆきさん)も入っています。1903年当時の移民会社4社の割り当ては1117人でしたが、結局はベンゲット移民として約1500人の日本人が行きました。

日本人は急ながけで崩れやすい最も危険な場所を受け持たされ、衛生設備が充分でなく力量も貧困だった為約700人が短期間に工事の犠牲になったといわれています。

全工事600万ペソを費やし、19051月、ついに道路は完成しました。

<日本人によるダバオ開拓>

太田恭三郎氏は、太田興業株式会社を設立しダバオ開拓の父と呼ばれました。太田氏は1901年(明治34年)26歳で日本を離れ、香港を経て木曜島に入り真珠貝採取事業を始めるが、期待していたほどではなく一端帰国。その後景気がいいと聞いたマニラに渡っていきました。

太田氏はベンゲット工事では御用商人として、たくさんの日本人のために味噌、醤油など日本雑貨を売っていました。ベンゲット工事が終わると移民の仕事がなくなるので、マニラ麻の栽培にあたる人が少なかったダバオに1903年(明治36年)30人、翌年180人、1905年(明治38年)には2回で合計170人をダバオに送り、太田氏も1904年にダバオに留まりマニラ麻の栽培を始め、1905年(明治38年)太田商店を開きましたが、マニラ麻園獲得の必要性に迫られ、バゴボ民族に必需品を売り、彼らから麻園を買い取り経営に当たりましたが土地問題が発生した為、1907年(明治40年)フィリピン法人法に基づき太田興業株式会社を設立し、バゴからミンタルにかけて公有地1010ヘクタールの払い下げを申請し取得して会社の基礎を作りました。先住民族はインタルと呼んでいましたが、太田氏が民多留と改名したので、ミンタルと呼ばれるようになりました。

ダバオ開拓には法人がたくさんの会社を設立しましたが、大きな所は太田興業株式会社と1915年4月ダリアオンに本拠を構えた、古川義三氏が設立した古川拓殖株式会社です。

古川氏は実兄の薦めもあり南洋に興味を持ち、従兄弟に当たる伊藤忠兵衛氏に相談すると、伊藤商店マニラ支店がマニラ麻を取り扱いを始めていたため、この方面を調べて大学卒業後はフィリピン群島に行く決心をし、フィリピン視察旅行をしました。ダバオではタモロの太田興業を尋ね太田氏自らの案内でマニラ麻園と椰子園を見学しました。帰る途中サンボアンガで下船し太田氏経営のオルタンガ島の伐木事業も見てきました。古川氏は小さいながらマニラ麻園の経営の自信をつけ1915年(大正3年)ダリオアンに本拠地を構え古川拓殖会社を設立しました。古川氏は大学卒業してすぐの会社設立だったために開墾の方法が分らず、既墾の耕地を買い、ここから事業を始めましたが、これが後の成功に繋がっていきます。

ダバオのマニラ麻園経営は、麻園から商品を運ぶのに道路建設と管理、邦人のための病院設立、学校設立、売店設置等を会社がしていきました。

保健設備の不完全さから日本人移民の犠牲者がたくさん出ました。主な病気は、マラリヤ、悪性マラリヤ、腸チフス、肺炎、脚気、赤痢、流行性感冒、外傷などでした。第一次世界大戦でのマニラ麻暴騰では、金儲けはダバオでマニラ麻の栽培だと思い込んだ経営者や自営者が無理をしたため、この時期(1917年から1918年)は犠牲者が多く出ました。1920年にはダバオに公立の病院が開かれました。公立病院以外にも、太田興業、古川拓殖も日本人医師とフィリピン人医師を招聘し病院を開設しましたが、その後のマニラ麻暴落により日本人が減少した為病院は規模を縮小しました。2,000人位の日本人が亡くなられたと言われています。

当時ダバオ周辺に住んでいた先住民族との摩擦が起きました。邦人農事会社が公有地の租借を請願し、その土地に住んでいた為の土地問題です。250人くらいの邦人犠牲者がでました。太田恭三氏の麻園買入経営がきっかけになった第一次ダバオ土地問題、古川氏のダバオ進出が動機となった第二次ダバオ土地問題、両社の土地又貸しが原因の第三次ダバオ土地問題、フィリピンの政治問題になり、日比双方に雄大な関心と持った第4次ダバオ土地問題が起こりました。ダバオに住んでいた民族との摩擦だけでなく、邦人の進出を危惧したフィリピン側、宗主国のアメリカ側の意図もあるようです。

マニラ麻園は火が入りやすく、毎年何処かの耕地で火災があり、麻園は火の回りが早く自営者の家まで焼いた例もあります。消火のために灌漑工事をしたり、延焼を防ぐ為に区画を整理し道路を広げたりと対策を講じました。

麻園から商品を運ぶのに道路建設が必要です。主要道路以外は政府関係で開設してくれないので、会社自らの開設になりました。ダバオは雨が多く道路が荒されるので、太田興業では使用者に修理費を徴収し、古川殖産では川から砂利を運んで敷きました。

日本郵船豪州定期航路船は古くからマニラ港に寄っていました。太田氏はダバオに行く日本人移民のために日本郵船と交渉をし、往路だけでもサンボアンガに寄航するようにし太田興業サンボアンガ支店が代理店を勤めることになりました。日本からダバオまでの日数と費用が少なくなりました。

ダバオ港は1907年頃一時開港になりましたが数ヶ月で閉鎖されましたが、1920年代後半から再び開港になり、日本郵船はサンボアンガ寄航をやめダバオに寄航し、古川拓殖とつながりのあった大阪商船が日本とダバオまでの定期航路が開かれて、古川殖産が代理店を勤めることになりました。

第二次世界大戦前の在留日本人は約4万人で、蘭領6,000人、英領マレイ5,000人、泰、仏印、ビルマなどは少数ですが、フィリピンには27,000人在住し、そのうち2万人がダバオに住んでいました。

<参考図書>

「ダバオ開拓記」

 古川義三著 古川殖産株式会社 昭和31年

「移民史Ⅱ アジア・オセアニア編」

今野敏彦・藤崎康夫編著 新泉社 1985年

2008.03.15

ダバオと日本人②

 うっそうと茂るラワンの林。巨木に棚木を作り1本づつ斧で切り倒していきます。直径2メートル以上もあるラワンを地上67メートルの高さに築いた棚を足場に切り倒す作業は数人で一日がかりです。ミシッといい始めてから倒れるまでに10分以上かかり、気の遠くなるような作業です。広く木を切り倒したあとは40日間天日乾燥させて焼き払います。数十人が一列に並んで、風上から一斉に火をつけます。一週間くらいは燃え続け、黒煙で太陽は黄色に鈍ってしまいます。逃げ遅れて焼け死んだ蛇やトカゲを狙ってカラスが集まってきて、空が真っ黒になるほどです。切り株は長い時間をかけて少しづつ取り払っていきます。

 麻株を掘って種株の採集をし、ワランの切り株や大木が横たわっている間に植えて生育させ、1年半から2年で成熟株となりますので、生え際から伐採します。植えられたアバカ(マニラ麻)が収穫されるまで少なく見積もっても3~4年はかかりました。その間収入はありません。麻株の間に陸稲やとうもろこしをまいて飢えをしのいでいました。

 きったアバカは麻挽き小屋に持って行き、麻の茎の皮剥ぎをし、繊維を抽出しますが、原始的な手法をとっていたため、1日働くと翌日は起きられないといわれるほどの重労働でした。水力利用のハゴタンが考案され、大正後期には発動機によるハゴタンが開発され作業は効率よくなりました。倉庫には麻俵が山積みされています。

 開拓は始まる前のダバオの様子をダバオ在留のジャーナリスト蒲原廣二氏はこう描写しています。

「広蓑(こうぼう)十数哩のダバオ平原は恰も眠れるが如く千古の神秘を蔵し、万木鬱蒼として遠くアポの連峰に続き、ダバオ、サランの河は紺碧の色を湛えて悠々千年の姿そのままに流れてくるのであった。河岸に覆い茂るラワンの大樹には野猿の群れが餌を求めて飛び廻り、したには大きな図体の鰐がさも心地良げに背を干しているのであった。海岸には慓唕なモロ族が蟠踞し・・・一歩山に入れば、槍と蛮刀に身を固めたバゴボの酋長が・・・猪や鹿狩りに余念がなかった」。

太田興業では「パキアオ・システム」(請負耕作制度)を採用し、少しの元で資金があり、労働さえいとわなければ自営者への道を歩むことが出来るようになり、日本人移民たちの過酷な労働の励みになりました。

 日本から奥さんを呼び寄せた人が居ました。1918年(大正7年)の在ダバオ日本人女性は200人で、その中には婦子軍(からゆきさん)が70人いますから、嫁様は珍しかったのでしょう。

「『内地から嫁さまが来たぞ』といううわさはたちまち近隣へ広がったもんです。わたしら若い者は日曜日になると3,4人してヒネブラ(サトウキビ焼酎)を持って嫁さまを見に出かけるのが楽しみでした。ただ見物するだけでも心が和んだもんですよ。」

第一次世界大戦時にマニラ麻は高値でしたが、終戦後は暴落し、1922年には最安値になり、日本人移民は帰国していった人が多数いて、8000人を越えていたダバオの日本人は2600人になり、3200人の自営者は815人になりました。

日会(日本人会)本部では1924年(大正13年)4月にダバオ市ボルトン街に日本人小学校を設立。1937年(昭和12年)までにサラン、東サラン、間ナンプラン、トンカラン、ディゴス、場やバス、狩りナン、ダリアオン、カテガン、ワガンと13の小学校が設けられました。

「兄弟3人で月10ペソの月謝を払っていたように思います。その工面が付かなくて親父が隣に借りに行ったのを覚えていますから。でも学校へ行く子供のいない日本人も月10ペソの協力金を払っていたようです。ダバオから神戸までの3等船賃が30ペソの頃ですよ。」と、当時ミンタルの小学区に通っていた人の証言です。学芸会、遠足、日会支部上げての運動会・・・。楽しい行事がありました。朝早く学校に行き、ラジオ体操、君が代斉唱。7時半から11時までが午前授業。昼休みは楽しみのお弁当。嫌いなおかずが入っていた不幸な日は好きなおかずを持ってきている級友とおかずの取替えっこです。

 子供達は大人社会の反映でしたから、2つの差別がありました。日本人男性と現地女性との間に生まれた「あいの子」と半日本人の沖縄人です。当時のダバオは沖縄県人がたくさん移住してきていました。

 1911年(明治44年)には20組の日本人とバゴボ民族との結婚が報告されていますが、日本人開拓者と現地先住民との結婚がどの位あったかは正確には分りません。日本人開拓者は先住民族の生活、信仰を犯したため摩擦が生じ、現地先住民との友好に腐心しました。数名の日本人がダド(酋長)に推挙されたといわれています。

日本人家庭では隣近所が持ち回りで場所を提供して、年末になると餅つきをして新年に備えていました。元旦は正装して食卓につき、一年で一番豪華な食事を楽しみました。でも、楽しい正月は1914年(昭和16年)が最後になりました。12月に日本軍は真珠湾攻撃をし第二次世界大戦が始まったからです。収容所に移された日本人は日本軍によって救出されましたが、過酷な生活だった為激しく疲労していました。

1943年(昭和18年)6月、大本営、政府連絡会議は「比島独立指導要綱」を決定し、「ミンダナオ島に就いては其の軍事的、経済的重要性に鑑み特別の措置をとるところあり」の一項が加えられました。

今まで築き上げていった麻園が日本軍の手に渡り、荒れていくばかりです。麻園はアバカが切り倒され、野菜が作られて、ニューギニアやパラウル等の戦地に送られていきました。レイテ島決戦を前に陸軍最高指揮官からダバオ在留同胞に檄が飛ばされました。その結果現地招集された人も、民間人も山中をさまよい続け家族が離れ離れになりました。終戦直前には陸軍、海軍の連絡は途絶え、食料、弾薬、物資を補給し、各部隊長の責任において自活するよう命令が下されました。どうやって自活していけばいいのでしょう。

終戦を迎え武装解除になってからはフィリピンに残った日本人は、フィリピン人の反日感情を一身に受けました。自分や自分の親が日本人だと分ると殺されてしまうので、証拠となるものは写真一枚も残さず手放しました。それが後日日本人である証明がなく、国籍を回復しずらくなっています。戦時下という特殊な状況を考慮に入れて日本政府が対応していたら、無国籍の人、日本国籍を自らの意思で取らなかった人が少なかったように思います。このような日系人の為の活動は今でも続いています。

フィリピン全国に散らばっている日系人の親、子、孫のために1980年に日系人会がダバオで発足し、同年8月には正式にフィリピン共和国証券取引委員会の認可を受けました。

参考図書・ホームページ

「ダバオ国の末裔たち―フィリピン日系棄民」天野洋一著 風媒社刊 1990

「母と子でみる フィリピン残留日系人」1997

鈴木賢士著 草の根出版会刊 

フィリピン日系人リーガルサポートセンター」ブログ

2007.08.02

バランガイ

 バランガイはフィリピン全土にある住民組織です。日本で言えば、町内会に当てはまりますが、一番違う所は、最末端の行政組織だという所です。住民組織を研究している先生は、バランガイを「町内会類似最末端地方政府」と日本語に訳しました。一つのバランガイが1,000人ほどの住民で構成されています。スペイン統治以前からあった伝統的なコミュニティーです。キダパワンには40のバランガイがあるようです。

 バランガイの元々の意味は、マレー系の人たちがフィリピンに渡っていったときに使った帆船の名前です。定住し、一つのコミュニティーを作っていったことから、その親族集団をバランガイと呼ぶようになったのです。帆船に乗ってきた親族が一つの地域に住み、生活していくうえでお互いに助け合ったり、外からの敵を共同で守る団結を意味するようになりました。

 機能はさまざまで、実際に何をしているかは地域によって違います。行政や地域開発のほかに、議会や地区の裁判も受け持ちます。開発の面では、地方行政法に従って計画と産業の振興を担っています。農業なら、栽培資材や農具の配布を行い、健康増進のための保健センター、福祉面では、ディケアセンターを開いたり、政治面では、バランガイは直接選挙制で、住民はバランガイ議会に出て意見を述べることが出来、様々な問題を話し合います。地区の裁判については住民間のトラブルを処理するので、住民は裁判所に訴える必要がありません。行政としての正規の機能だともいえるし、住民が昔からしてきたことを公式の形にしただけとも言えます。話し合いにはバランガイの役人が同席し、調停します。これが公式の機能です。

 バランガイには非公式の機能もあります。行政組織であると同時にコミュニティーでもあります。非常に活発なコミュニティーで、所属している団体が、それぞれ異なる活動で、これもが住民主体です。教会の活動もあり、お祭りなどが催されます。コミュニティー劇場にも携わり、住民が技芸を披露するのは、文化を守る場でもあります。地方行政だけでは解決できないゴミ問題にも関わります。

 バランガイの可能性は多様で、上級の役所が処理する問題は別ですが、人が集まることなら何だって出来るわけです。

2004年にビレッジに行ったときに、バナナ農園に行きました。この農園は3つのバランガイで管理していました。本当にバランガイは地域のことなら何でもするのですね。

キダパワン市のスダピンバランガイに見学に行った時、バランガイキャプテンの秘書にインタビューをしました。その記事が↓です。
http://pikapikahikari.air-nifty.com/furusato/2008/09/post-1797.html

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