日 時:2018年12月5日(水)14:00~16:00
場 所:放送大学北海道学習センター6階中講義室
テーマ:北海道150年と私たち
講 師:ジャーナリスト 外岡秀俊 氏
主 催:道史学習サークル
開会の言葉のあとに、サークル代表の成田さん、来賓の放送大学北海道学習センター所長 新田先生の挨拶がありました。
あいさつの後は、道史学習サークルの今までの歩みを振り返ります。
2004年から始まった同サークルは、毎月一度の例会と年1~2回の見学会を行っています。
200回になる今月は、北海道と名付けられて150年。それで、今日の講演会の開催になりました。
企画が良かったからでしょう。講義室には空席が無いくらいに参加者が来ました。
講師は元朝日新聞編集長で、在職中はニューヨーク、ロンドン、香港にもいましたので、外国から見た北海道でお話をしてくださいました。
視点が変わると、面白いです。
①札幌農学校のリベラリズム
②札幌西高校を中心とする新彫刻運動
③岩内をめぐる文学と芸術の交流
北海道を語る時に世界の航路から見ると、樺太が重要になるのです。
世界地図を中国大陸から太平洋に向かってみると、日本にアメリカ軍が駐留している理由が分かるのです。
CO2が増えている今、北海道は農業と漁業で生き残るだろう。なぜならCO2は植物のご飯だから。
色々なお話を聞けて大変充実した講演会でした。
・ ・ ・
フィリピンを舞台にした青年海外協力隊の映画を観てきました。
研修所で同期だった3人は、ルソン島のバギオ、ベンケット、イフガオにそれぞれ派遣されます。
1900年代初め、フィリピンを領有したアメリカはバギオを避暑地として開発をしました。
マニラからの道路建設のベンケットの所を日本人移民が行いました。
ですから、この辺りは100年以上前から日本人が行っていました。道路工事だけではなくて農業もしました。予告編にも出てきますが、映画ではこの時に日本人が栽培していたイチゴが市場に山積になっている場面が出てきます。
イフガオでは戦争の傷跡が出てきます。
現在、青年海外協力隊は現地に行き、住民の側に立って活動をしています。
映画では、民間レベルでの日比交流の110年くらいをザックリと眺めることもできます。
良くも悪くもフィリピンに行って日本人が行ったことは、後に残っています。
それでもこの100年間、日比交流は良くなってきていると思います。
6月2日から5日までアキノ大統領が国賓として訪日していた3日、BSジャパンを入れたら、ちょうどニュースが始まったばかりで、アキノ大統領の独占インタビューが有るとのこと。
フィリピンが私を呼んでるぅ~♪
テレビで見るアキノ大統領は知性あふれるイケメン。
写真よりもずっといいわぁ~♪♪
3日夜は宮中晩さん会、4日は首脳会談がありました。
アキノ大統領が内政で力を入れたのが経済発展で、以前は3パーセント強の伸びだったのが、現在では6パーセント強と2倍になっています。
私が大統領の業績で一番いいなと思うのは、健康保険の改革です。
フィリピンでは公務員とその家族が強制的に加入するものと、国民皆保険を目指したフィリヘルスがありますが、人口の4割いると言われている貧困層は保険の支払いが出来ないので加入できないでいました。...
そのような人たちのために、フォーピースが出来ました。
昨年11月にミンダナオ島に行ったときに、イスラームの女性たち(医師や看護師)の医療チームの巡回診療の見学をしました。フォーピースを利用しているとのこと。アキノ大統領が作った制度なので、大統領が変わったら無くなるのではないかと心配をしていました。
大統領の再選は禁じられているフィリピン。アキノ大統領の任期はあと1年です。
大統領が変わってもフォーピースが続いていますように。
この写真は、06年にミンダナオ島の、サランガニ州ディアス村に行った時のものです。
この村はイスラーム教徒の複数の民族が住んでいます。クリンタンが聞きたくて、一度、イスラームの地域に行ってみたくて、実現しました。
クリンタンの演奏で出迎えてくださって、長い時間演奏してくださり、昼食はごちそうになりました。
内面も服装もとっても開放的で驚きました。
フィリピンは日本と同じ双系社会です。双系社会はジェンダー規範が緩くなるんだって。
最近発見した、すごいブログを紹介します。
ミンダナオのイスラム社会の事を書いてあります。
↓ここです。
http://kulintangmusic.blog135.fc2.com/
とにかく中身が濃くて凄いんです。
鶴見良行 著
「バナナと日本人」
岩波新書 1982年
ミンダナオを知りたい人 必読の書です。
フィリピンは350年間スペイン時代を迎えていました。他の東南アジア諸国がそうであったように、ヨーロッパ時代に搾取する・されるが入った二重構造が出来上がりました。その中でもシンガポールとブルネイが先進国並みのGNPを達成しました。シンガポールは貿易を完全自由化し、ブルネイは人口が少なく石油を持っているからです。
第2次世界大戦が終わり、独立を果たした東南アジア諸国は、この二重構造を埋めるべく努力をしてきましたが、解決しないまま今日まで来ています。政治が未熟なのではなく、搾取する・されるが入った二重構造を埋めるのが、いかに難しいかを物語っています。
日本のスーパーでフィリピン産バナナが安く売られているのはなぜか?ミンダナオの人たちが働けども働けども暮らし向きは一向に良くならないのはなぜか?
この数年、東南アジア諸国では、貧困率が減少しているのに、フィリピンだけ増加し、特にミンダナオは深刻です。
スペイン時代から続いている負の鎖が、幾重にもミンダナオを縛り付けているなと感じました。
マギンダナオ州副町長の妻が選挙に立候補の届出をしに行った時、同行した副町長の親戚、報道関係者らが拉致され57人を殺害された事件が11月23日に起きた。
26日、政府当局は殺害を指示したとされる、ダトゥウンサイ町のアンダル・アンパトゥアン町長を拘束。私兵団の武装解除にも着手。
12月1日 私兵団に57人殺害を提示したとしてアンパトゥアン町長を殺人罪で起訴。
3日 イスラム教徒自治区(ARMM)のルディ・アンパトゥアン知事、非常事態宣言と内務自治長官への定職権限付与は違憲として最高裁に提訴。
4日 マギンダナオ州一部の地域に戒厳令布告。
5日 戒厳令布告を受け、同州に国軍部隊を増派。アンダル・アンパトゥアン前知事とサルディ・アンパトゥアンARMM知事らを拘束。
7日 サフロンガ元下院議長らが戒厳令と人身保護礼状請求権停止措置の無効化を求め、最高裁に提訴。
9日 上・下両院合同議会が、戒厳令と人身保護礼状請求権停止措置の執行可否審議を開始。法務省検察局、マギンダナオ州前知事ら24人を反乱罪で起訴。
12日 政府、戒厳令と人身保護礼状請求権停止措置を解除。違憲性がある裁判の敗訴を避けるためとの見方がある。
14日 元上院議長ら、重大な憲法違反だとし、大統領権限の乱用を避けるためにも戒厳令裁判の審理継続と判決言い渡しを最高裁に呼びかける。
アンパトゥアン知事ら5人は、ジェネラルサントスの国家警察施設に収容されている。警官10人が24時間体勢で警備をし、監房は50平方メートルほどの広さで、来客用のいす、有線放送が入るテレビ、扇風機などがある。携帯電話の使用は禁止。
<民間人志願組織(CVO)>
アンパトゥアン知事は、イスラム急進派、モロ・イスラム解放戦線(MILF)の恐喝や嫌がらせから守る為に、内務省の了承の下、地方自治体向けの交付金(年間約30億ペソ)を使って武器の調達にあてていた。
マギンダナオ州内で活動したCVOは総勢2300人。武器を手にするCVO構成員は、国家警察による訓練やセミナーを約一ヶ月間受け、CVOの活動に参加する。軍・警察がMILF掃討作戦を実施する際は、周辺の地理に詳しいCVOが作戦に加わり、軍・警察の先兵としてMILFと戦ってきた。
CVOの構成員24人が、国軍などの呼びかけに対して10日に一斉投降し収容された。
家族を養うのに充分な収入を得れる仕事がなく、CVOに志願したと異口同音に語っている。イスラム急進派、MILFと対峙し、最前線で武器を取るなどして、月給3500ペソを得る為に命がけの戦いを余儀なくされている(農民の収入は月約500ペソ)。24人全員は小学校を卒業していない為に、読み書きも満足に出来ず、公用語のフィリピノ語・英語も理解できない為に、捜査官はマギンダナオ語との通訳を介して取調べを行っている。CVOに志願すると、国家警察による訓練やセミナーを受けた後参加することになっているが、実際はライフル銃を扱え、アンパトゥアン一族に忠誠を誓えばCVOになれる。
小学校4年生で中退した17歳の男性は、15歳でCVOに入った。MILFとの戦闘も経験した。既に子どもも数人いて、養っていくにはCVOに入るしかなかった。ライフル銃を持つ少年兵の姿が、そこにはあった。
教育水準の低さなどによる貧困という厳しい現実がある。
-以上 連日の日刊マニラ新聞より-
ミンダナオの紛争は、イスラム教徒とキリスト教徒の対立とよく言われるが、複雑なことを簡単に言ったこと。ミンダナオ島には元々住んでいた人たちがいて、そこに他の島から移住してきて、対立が生まれる。それが今では、イスラム同士の対立になってきている。
ミンダナオ島の紛争が無くなることを祈りつつ、この記事をアップした。
キダパワン市にあるスダピンバランガイ。
1737世帯、8,000人位の規模です。
組織は、一番上がバランガイキャプテン。その下に、カガワッド、セクレタリー、トレジャラー、レコードキーパー(記録係り)、バランガイキャプテンの秘書がいます。
カガワットは7人いて、教育、健康問題、農業、財政、平和と秩序、健康予防促進、会計の担当に分かれています。
もめごとは、セキュリタリーからレコードキーパーに行き、最終的にバランガイキャプテンかカガワッドに回されます。もめごとで多いのは、借金、夫婦喧嘩の仲裁、夫婦以外の喧嘩仲裁。バランガイの範囲を超えて警察になる場合は、書類を出す。大きな喧嘩は警察がすぐ来る。
バランガイホールの裏に、ヘルスセンターがあり、隣にはディケァセンターがあります。
右側は新しいディケァセンターで、左側は古い方です。事務所にするとのこと。
新しい方のディケァセンターでは、子供達の保育をしていて、中は可愛くしています。「健康問題」では、ヘルスセンターを管理していて、予防接種、妊婦さんへの指導等を行っています。
平和と秩序は、市民ボランティアが平和を監視する見張り役です。
農業は、生産者が入っていて、情報交換をしています。
毎年9月27日~28日はバランガイ設立を記念して、バランガイフェスティバルがあります。バスケ、ゲーム、食べたり、オカマショーもあります。
バランガイキャプテンのお給料は7,200ぺそ。
収入源は、住民税、市からは年1回多少の援助金があります。バランガイでお店を持っているので、その収益も収入になります。地方自治体から中央政府に申請しても、お金は下りてきません。ODAから多少の資金があります。
フィリピンの人にとってバランガイはごく普通のことなのでしょうが、コミュニティーとしての活動と、行政の末端を担う活動と両方しているバランガイは、すごいなと思いました。
<世界平和度ランキング>
英国の「エコノミスト・インテリジェンス・ユニット」が世界平和度ランキングを発表しました。
平和度を「対内的な平和」60%、「対外的な平和」40%の比率で計算しています。
2006年までの6年間の対外的紛争、国内紛争の数、組織的犯罪による死者の数、難民の数、暴動発生の頻度、テロ発生の可能性、武器入手の容易さ、人権が尊重されているか、政治的安定性があるかなど、24項目を5段階でランク付けをして評価をしました。
調査対象国と地域は140。
1位 アイスランド
2位 デンマーク
3位 ノルウェー
4位 ニュージーランド
5位 日本
6位 アイルランド
23位 香港
29位 シンガポール
32位 韓国
35位 ベトナム
38位 マレーシア
44位 台湾
67位 中国
68位 インドネシア
91位カンボジア
97位 米国
113位 フィリピン
118位 タイ
126位 ミヤンマー
131位 ロシア
133位 北朝鮮
136位 イスラエル
137位 アフガニスタン
138位 スーダン
139位 ソマリア
140位 イラク
<世界幸福度ランキング>
英国シンクタンクのnefによる、平均寿命や生活満足度などで評価。数字の出し方は、
HPI=生活満足度(自己申告)×幸福時の寿命÷使った土地や資源
他にも幸福度を出している数字があるのですが、この数字を紹介します。
1位 バヌアツ
2位 コロンビア
3位 コスタリカ
4位 ドミニカ
5位 パナマ
12位 ベトナム
17位 フィリピン
23位 インドネシア
31位 中国
32位 タイ
44位 マレーシア
84位 台湾
88位 香港
91位 カンボジア
95位 日本
102位 韓国
109位 ラオス
131位 シンガポール
150位 米国
172位 ロシア
皆さんは、どう感じますか。
1888年(明治21年) マニラ市に日本領事館が開かれた。
1889年(明治22年) 在留日本人36人
1893年(明治26年) 在留日本人6人になったため日本領事館閉鎖
1897年(明治30年) 日清戦争で台湾が日本領になったため日本領事館再開。在留日本人15人。
1898年 フィリピン米領に。日本人20~30人。
この頃までに日本人が最も多くフィリピンに渡って行ったのは1573年から1614年、天正年間から慶長の末期までで、一時期マニラには3000人もいたと伝えられていますが、この間に多数の人が渡航したとは考えにくく、1000人程度ではないかというのが古川殖産株式会社の古川氏の見方です。
<アメリカによる開拓>
ダバオ州はスペイン時代にはほとんど開拓されず、1898年米領となりサンボアンガ軍司令官のレオナード・ウッド将軍はダバオ州は肥沃で未開地の多いことを知りダバオ開拓を部下に勧めました。ダバオ湾沿いに約50人が約30箇所に入ってマニラ麻の耕作者になりました。ウッド将軍は1921年から1927年まで幾度となくダバオを訪問し、マニラ麻の直接輸出、ダバオ開港の時期を早めたりとダバオ州発展に尽くしました。米国人は大変な努力をしてきたのですが、報いは小さく終わりました。
<ベンゲット道路工事>
米西戦争の結果、フィリピンは米領となり、熱帯のフィリピンを米国人が治めるのには避暑地が必要と考え、バギオに道路をつけ避暑地を開くことにしました。フィリピン労働者500人、支那人500人、白人200人、で道路工事を始めたのですが、2年間で150万ペソを使っても一向に進まず、工事はもっとも困難な場所に来たため200万ペソの予算でこれに当たることにしました。当時はアメリカ本国では日本移民排斥の声が高かったのですが、工事監督のケノン少佐はカリフォルニアでの日本移民の能力を知っていた為マニラの帝国領事館を通じ、日本移民を入れることにしました。少佐の要望は、道路開設労働者900人、石工100人、監督20人、英語通訳約1人、及びその助手1人の合計1022人でした。
比島政府から移民会社に移民一人当たり拾円の手数料を支給されていたので、争奪戦が起きました。他の移民会社の悪い評判を言ったり、事実以上の誇張したり、実際は竣工が目前に迫っているのに工期はあと一年あると言ったり、移民の質を何も考えないなど、後の責任を持たず唯人数だけを送り込むことをしていました。
渡比した日本人は1903年(明治36年)に男子475人、婦女子446人で婦子軍(からゆきさん)も入っています。1903年当時の移民会社4社の割り当ては1117人でしたが、結局はベンゲット移民として約1500人の日本人が行きました。
日本人は急ながけで崩れやすい最も危険な場所を受け持たされ、衛生設備が充分でなく力量も貧困だった為約700人が短期間に工事の犠牲になったといわれています。
全工事600万ペソを費やし、1905年1月、ついに道路は完成しました。
<日本人によるダバオ開拓>
太田恭三郎氏は、太田興業株式会社を設立しダバオ開拓の父と呼ばれました。太田氏は1901年(明治34年)26歳で日本を離れ、香港を経て木曜島に入り真珠貝採取事業を始めるが、期待していたほどではなく一端帰国。その後景気がいいと聞いたマニラに渡っていきました。
太田氏はベンゲット工事では御用商人として、たくさんの日本人のために味噌、醤油など日本雑貨を売っていました。ベンゲット工事が終わると移民の仕事がなくなるので、マニラ麻の栽培にあたる人が少なかったダバオに1903年(明治36年)30人、翌年180人、1905年(明治38年)には2回で合計170人をダバオに送り、太田氏も1904年にダバオに留まりマニラ麻の栽培を始め、1905年(明治38年)太田商店を開きましたが、マニラ麻園獲得の必要性に迫られ、バゴボ民族に必需品を売り、彼らから麻園を買い取り経営に当たりましたが土地問題が発生した為、1907年(明治40年)フィリピン法人法に基づき太田興業株式会社を設立し、バゴからミンタルにかけて公有地1010ヘクタールの払い下げを申請し取得して会社の基礎を作りました。先住民族はインタルと呼んでいましたが、太田氏が民多留と改名したので、ミンタルと呼ばれるようになりました。
ダバオ開拓には法人がたくさんの会社を設立しましたが、大きな所は太田興業株式会社と1915年4月ダリアオンに本拠を構えた、古川義三氏が設立した古川拓殖株式会社です。
古川氏は実兄の薦めもあり南洋に興味を持ち、従兄弟に当たる伊藤忠兵衛氏に相談すると、伊藤商店マニラ支店がマニラ麻を取り扱いを始めていたため、この方面を調べて大学卒業後はフィリピン群島に行く決心をし、フィリピン視察旅行をしました。ダバオではタモロの太田興業を尋ね太田氏自らの案内でマニラ麻園と椰子園を見学しました。帰る途中サンボアンガで下船し太田氏経営のオルタンガ島の伐木事業も見てきました。古川氏は小さいながらマニラ麻園の経営の自信をつけ1915年(大正3年)ダリオアンに本拠地を構え古川拓殖会社を設立しました。古川氏は大学卒業してすぐの会社設立だったために開墾の方法が分らず、既墾の耕地を買い、ここから事業を始めましたが、これが後の成功に繋がっていきます。
ダバオのマニラ麻園経営は、麻園から商品を運ぶのに道路建設と管理、邦人のための病院設立、学校設立、売店設置等を会社がしていきました。
保健設備の不完全さから日本人移民の犠牲者がたくさん出ました。主な病気は、マラリヤ、悪性マラリヤ、腸チフス、肺炎、脚気、赤痢、流行性感冒、外傷などでした。第一次世界大戦でのマニラ麻暴騰では、金儲けはダバオでマニラ麻の栽培だと思い込んだ経営者や自営者が無理をしたため、この時期(1917年から1918年)は犠牲者が多く出ました。1920年にはダバオに公立の病院が開かれました。公立病院以外にも、太田興業、古川拓殖も日本人医師とフィリピン人医師を招聘し病院を開設しましたが、その後のマニラ麻暴落により日本人が減少した為病院は規模を縮小しました。2,000人位の日本人が亡くなられたと言われています。
当時ダバオ周辺に住んでいた先住民族との摩擦が起きました。邦人農事会社が公有地の租借を請願し、その土地に住んでいた為の土地問題です。250人くらいの邦人犠牲者がでました。太田恭三氏の麻園買入経営がきっかけになった第一次ダバオ土地問題、古川氏のダバオ進出が動機となった第二次ダバオ土地問題、両社の土地又貸しが原因の第三次ダバオ土地問題、フィリピンの政治問題になり、日比双方に雄大な関心と持った第4次ダバオ土地問題が起こりました。ダバオに住んでいた民族との摩擦だけでなく、邦人の進出を危惧したフィリピン側、宗主国のアメリカ側の意図もあるようです。
マニラ麻園は火が入りやすく、毎年何処かの耕地で火災があり、麻園は火の回りが早く自営者の家まで焼いた例もあります。消火のために灌漑工事をしたり、延焼を防ぐ為に区画を整理し道路を広げたりと対策を講じました。
麻園から商品を運ぶのに道路建設が必要です。主要道路以外は政府関係で開設してくれないので、会社自らの開設になりました。ダバオは雨が多く道路が荒されるので、太田興業では使用者に修理費を徴収し、古川殖産では川から砂利を運んで敷きました。
日本郵船豪州定期航路船は古くからマニラ港に寄っていました。太田氏はダバオに行く日本人移民のために日本郵船と交渉をし、往路だけでもサンボアンガに寄航するようにし太田興業サンボアンガ支店が代理店を勤めることになりました。日本からダバオまでの日数と費用が少なくなりました。
ダバオ港は1907年頃一時開港になりましたが数ヶ月で閉鎖されましたが、1920年代後半から再び開港になり、日本郵船はサンボアンガ寄航をやめダバオに寄航し、古川拓殖とつながりのあった大阪商船が日本とダバオまでの定期航路が開かれて、古川殖産が代理店を勤めることになりました。
第二次世界大戦前の在留日本人は約4万人で、蘭領6,000人、英領マレイ5,000人、泰、仏印、ビルマなどは少数ですが、フィリピンには27,000人在住し、そのうち2万人がダバオに住んでいました。
<参考図書>
「ダバオ開拓記」
古川義三著 古川殖産株式会社 昭和31年
「移民史Ⅱ アジア・オセアニア編」
今野敏彦・藤崎康夫編著 新泉社 1985年
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