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移民

2010.12.10

マニラ麻栽培と日本人移民①はじめに

 日本のスーパーではフィリピン産バナナが安く売られている。主な産地はミンダナオだ。ミンダナオには日本向け輸出用のバナナ農園がダバオ州の近くには多数あり、日米両国の資本が入っている。

 2004年8月にミンダナオに行った時にバナナ農園を見学した。日本人が経営していて、週3回ヘリコプターでやって来ると、農園の人は言っていた。収穫したバナナはドールの名前が入っている箱に詰められ、出荷されていた。
 ダバオ支庁舎近くには日本人街があった跡が今でも残り、「ダバオ開拓の父」と言われている太田恭三郎の記念碑の裏には日系人墓地がある。

 明治政府は近代化を進めていったが、国民は貧しかった。食べていく為に海外に働きに出ていた。今は「移民」というと定住する事だと考えるが、当時は出稼ぎ感覚で来ていて、ある程度の蓄えが出来るとダバオを去っていく者が多かった。

 太平洋戦争前、蘭領に8,000人の日本人が住んでいたと言われている時期に、フィリピンには3万人の日本人が住んでいて、そのうちの2万人がダバオ州に住んでいた。ダバオは日本人が開拓したものだと言われている。マニラ麻栽培を中心にして栄えていた。日本人は原始林を開墾し、身を粉にして働き、主にマニラ麻の栽培をしていた。

マニラ麻とはどういう植物なのか。『東南アジアを知る事典』の「マニラ麻」の項を引用する。
アバカ(abaca)とも呼ばれ、葉(葉鞘ようしょう)から繊維をとるために栽培されるバショウ科の多年草。原産地はフィリピンとされ、東南アジア熱帯で栽培される。草姿はバナナに酷似していて、高さ4メートルの葉鞘が巻き重なって狭長卵型で、長さ3.5m、幅50cmになる。果実はバナナに似て小型で、種子を有するが、増殖は主として吸芽(株から出た子苗)による。葉鞘から、強靭で弾力のある硬質繊維を取り、ロープや敷物に利用する。耐水性があり、比重が小さい為に、船舶用のロープに多く利用された。・・・マニラ麻には一定した収穫期が無いため、年間均等化した降雨量があり、台風の経路からも外れているダバオ州が敵地である。・・・

 スペイン時代の末期の主な産地はビコール地方で、砂糖、タバコと共に主要輸出品だった。その栽培地がビコール地方からダバオ州に移った。

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2010.12.09

マニラ麻栽培と日本人移民②マニラ麻栽培の始まり

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 19世紀末に米西戦争が起き、アメリカはフィリピンを領有した。スペインよりも軍事力が勝るアメリカはミンダナオを征服するために、1899年12月20日、米軍のバーチフィールド大尉(写真)が中隊を卒いてダバオに進駐した。トルコ人、スペイン人、中国人、フィリピン人の農園があった。当時の米軍は進駐した地に退役軍人を住まわせる方針だった。バーチフィールドは退役する前の1901年4月にダリアオンの土地を購入し、ケンタッキー・プランテーションの経営を始めた。初代モロ州知事ウッド将軍の勧めもあり、アメリカ人プランターの数が増え、1905年2月15日、ダバオ栽培者協会が設立され、翌年には会員数が60人になった。

 アメリカ体制期の土地制度は、スペイン時代からの制度を政策的に利用したため、そのまま継承している。1902年にアメリカは公有地を処分する権限をフィリピン政庁に与えた。同年にフィリピン組織法第15条により土地の購入が制限された。幾度かの改正により、最終的に個人の取得24ヘクタール(フリーパテントとホームステッド)、購入144ヘクタール、会社1024ヘクタールまでと決まった。

 ホームステッドとは、21歳以上もしくは世帯主であるアメリカ人とフィリピン人に対し、自己による耕作を条件に24ヘクタールまで公有地無償譲渡を認めた制度であり、フリーパテントとは、1898年8月1日以降継続して占有、耕作しているか、同年8月1日までの3年間と1902年7月4日以降占有、耕作している者に対し、24ヘクタールまで申請により占有地の所有タイトルを無償で譲与すると認められた制度である。

 取得制限があったため、ダバオ州の農園は小規模経営であったが、常に人手不足だった。

 写真は、ダバオ会編『ダバオ 懐かしの写真集』より

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2010.12.08

マニラ麻栽培と日本人移民③太田興業株式会社

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 ダバオの人手不足に目をつけたのが、マニラで商店を経営していた太田恭三郎(写真)だった。ルソン島北部山岳地帯ベンケット州バギオに至る山道の建設工事が1901年1月15日に開始され、1903年から多数の日本人が工事に携わるために、ベンケット州に渡っていった。太田は日本人相手に日本食や雑貨を販売していた。工事が終われば日本人移民の仕事が無くなるため、1904年、1905年に合計350人をダバオに送り出し、1905年7月に自身もダバオに渡った。バゴとミンタルの公有地1010ヘクタールを購入し、バゴボ族相手の商店を開店し、マニラ麻栽培も手がけた。1907年5月3日、フィリピン法人法により太田興業株式会社を設立、1909年より本社をタロモに移した。
 太田は、道路建設、灌漑網、電話網、病院開設、桟橋建設と公共事業を進めていき、マニラ麻栽培の基礎を築いた。

 日本人は自分で農業経営をする土地を持ったほうがよいと考えた太田は、自営者耕作法(パキアオ方式)を考案した。自営者は会社の耕地を借り、栽培経費を負担しマニラ麻を栽培する。収穫物は会社に販売を委ね、5%の地代を納めるものだった。太田興業株式会社が設立されたときに、地代は10%に引き上げられた。自営者耕作法はその後、太田興業だけでなく、広く採用され、他の農事会社や先住民族の土地を日本人が租借しマニラ麻栽培をする場合にも用いられた。

 1900年代の日本人農事会社は商業をしていくためのマニラ麻栽培だったが、次第に農業に傾注するようになるきっかけとなった政令が1909年、ダバオ州政府より知事アレン・ウォーカーの名によって出された。
 ダバオからサンタクルースに至るまでの1里以上奥地で、商業を営む事を禁ずるとの内容だった。バゴボ族への商品の販売はツケで行われていたため、閉店すると代金の回収ができなくなった。また、在庫商品は他地域では売れなく、資本力のない日本人商店主は死活問題に直面した。商業の岡田孝太郎と医師の橋本音次の2名がマニラに行き、岩や領事と対策を協議した。領事がモロ州知事ブリスに打電したが、「なんら関知せず」との返事しかなかった。そこで、領事館顧問弁護士でアメリカ人のハーディガンに相談すると、土地を獲得し、農事会社を設立すると商業が続けていけることが分かった。こうして、1911年、イムラに岡田孝太郎がミンダナオ農商株式会社を、カタルナンに商業の上田亥之吉がカタルナン農業株式会社を、ローヤンに商業の赤峰三郎が南ミンダナオ興業株式会社を設立した。

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2010.12.07

マニラ麻栽培と日本人移民④1900年代の移民の暮らし

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 太田恭三郎がベンケット移民と共にダバオ入りした1906年には約300人だった日本人は1911年には約600人に増えていった。1907年から0911年までの移民会社取り扱いフィリピン行き渡航者調査によると、ほとんどが男性で、15歳から40歳が大半で、職業は農業、大工、木挽き、杣挽きに大別できる事から、フィリピンでの仕事は農業と林業に携わっていたことが分かる。自由渡航者は熟練職人であるらしく、家督相続人が多いことから本家の経済が逼迫している様子が伺われる。1906年5月の栽培者協会総会で、日本人労働者に対する報告がされている記事が『ダバオ邦人開拓史』に掲載されている。

「過去2年間すでに日本人労働者を使用してみたが、結果は不成績であった。日本人労働者は高い給料を要求して、たんに麻挽きのみを望み、その上定住性がなく頼りにならない。」

 マニラ麻栽培の始め、ダバオがまだ原始林だった頃、30件くらいの部落しかなかった。道路の真ん中にカラバオ(水牛)の穴がいくつもあった。まだ住む家もなく、野宿が多かった。作付け方法や農機具なども工夫をしなければならなかった。食料が不足し、品質の悪い米と、副食も口に合わなく、野菜もなかった。原始林の開墾もしなければならなかった。ベンケットよりも悪い環境である為、ダバオを去る者が多かったが留まる者もいた。

 太田が購入した公有地はバゴボ族が先祖伝来住んでいた土地だった。焼畑をし、数年ごとに住む場所を移動していたので、住んでいない土地を公有地とみなされてしまい、日本人が入ってきた。対立が起きたが、バゴボの娘と結婚して耕地を得た人もいて、対立を和らげる役割をしていた。バゴボは日本人に土地を貸すことにより地代を得て税金を払い、日本人は耕地を得ていたので、国際結婚は多数あった。結婚届を出していないケースがかなりの数になった。合法的結婚だとフィリピン人妻は結婚と同時に日本国籍になり、フィリピン国籍も土地所有権もなくしてしまうからだ。

 写真は、ダバオ会『ダバオ 懐かしの写真集』より

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2010.12.06

マニラ麻栽培と日本人移民⑤日本資本の流れ込み

 1910年代は、第1次世界大戦景気で日本資本がダバオに流れ込み、農事会社が多数設立された。古川拓殖株式会社もそのひとつだ。

 伊藤忠商店(現伊藤忠商事)と丸紅の全面的バックアップにより、1914年12月28日古川義三が社長になり、古川拓殖株式会社が設立された。バーチフィールドの耕地100ヘクタールを2万ペソで購入し、マニラ麻栽培を始めた。マニラ麻生産と輸出に特化した事業を行っていた。

 1907年に太田興業が設立されてから1920年までに設立された日本人栽培会社は71社にのぼる。米・西・比・中の外国人耕地を買収した会社もある。公有地や私有地の購入よりも公有地租借の方がかなり多く、小額資本で参入している様子が伺われる。1917年の自営者数は525人、古川拓殖の使用人数百人となっている。

 マニラ麻は等級と包装に基準がないため、海外でのマニラ麻の信頼獲得を目的として、格付けと包装の規定を設けた。製鋼用マニラ麻等級は13段階で、Fが標準である。

 産出されたマニラ麻は、ダバオ港開港後で入札制度が採られてからはアメリカの商会とイギリスの商会も買っていたが、太田興業、古川拓殖、三井物産、で全体の65%以上を買い取っていた。

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2010.12.05

マニラ麻栽培と日本人移民⑥ダバオの開拓は日本人で

 アメリカ政府は、日本人のマニラ麻栽培を容認する一方で、進出を抑えるために再びアメリカ資本を投入した。ブキッドノンに広大な牧場2つと、デルモンテ社のパイナップル農園が出来た。1900年初頭、ダバオのプランテーションに投資し設立された農園は、日本人に取って代わった事から、日米の資本の棲み分けができた。

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 1918年にダバオに日本人会(写真)が設立し、翌年には領事館が開設になった。次々と起こる土地問題の対応に中心的な役割を果たした。日本人会では同年、移民呼寄せの許可範囲を広げ、4親等までにすることをマニラ領事館、移民会社と交渉し、11月に、マニラ領事の手を経て日本外務大臣に陳情書を提出した。

 日本人が増えると、日本人批判がマニラの新聞に掲載された。批判されている事は、土地の払下げや租借の制限を守っているか、マニラからダバオ行きの船は日本人で定員オーバーになり環境が悪い、バゴボ民族との摩擦、日本人の不法入国だ。マニラ領事が日本人会に対応を迫り、日本人会は回答した。

 1919年、公有地法が改正になり、アメリカ人、フィリピン人の持ち株が61%以上でなければ、租借、払下げができなくなった。そこで、日本人栽培者はマニラの来栖総領事や他の有力者との協議を重ね、6項目の申し入れをした。総督ハリソンは1920年2月4日付で議会に対し、「日本人栽培業者を救済しなければ、彼等は困難に直面する。既にダバオ州の多大な発展をなしたのは勤勉な日本人である」とし、44日本人会社の許可を推挙した。ハリソンの緩和案をうけ、上院では議長のケソンが反対意見を論破し、16対2で修正案が通過した結果、日本人の提案よりも有利なものになった。

 1918年、ダバオの状況は急速に悪化していると発言したハリソンが日本人を擁護し、ケソンも同じ考えを持っていた。この時期、日本とアメリカではアメリカ行き移民の制限について協議をしていたが、米領フィリピンでは労働者不足から日本人移民に対する制限は行われなかった。フィリピンでは植民地開発に日本人は必要な存在であった。

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2010.12.04

マニラ麻栽培と日本人移民⑦麻価格と在留日本人数

 マニラ麻価格が高騰すると渡航者数が増え、在留日本人数も増えてくるが、麻価格が下落すると渡航者数、在留日本人数共に減少している。
1915年 麻価格20ペソ、在留日本人数1550人。
1918年 麻価格49ペソ、在留日本人数7350人。
1921年 麻価格17ペソ、在留日本人数4265人。
1925年 麻価格44ペソ、在留日本人数4562人。

 金儲け話しが国元に送られ、移民会社も宣伝した為、月2~3回ダバオに来る船には1回に100~200人の移民を迎えて奪い合っていた。日本人移民はマニラから老朽船に乗ってタロモに上陸していた。マニラを経由すると船賃が高くつくため、太田興業は日本優先の豪州定期便がサンボアンガに寄航するように交渉し、実現してからはサンボアンガから船に乗り継ぎタロモまで行った。当時のタロモは柏原旅館の支店、商店が建ち並び活気付いていた。1917年の日本人農事会社は60社にのぼっていたが、実際に開拓されていたところは太田興業のバゴ地区で、ミンタル地区の裏辺りもジャングルの中だった。マニラ麻園の開拓の方法は二つあり、ひとつは一度使われていたあと放棄された土地を使う方法があるが、麻の生育が良くない。もうひとつは、原始林の開墾だ。

 厳しい労働条件だったが、2~3年働いて麻栽培を覚えると耕主になれるので、麻挽きの仕事に就いた。麻挽きは重労働で1日に20キログラムを生産するために1日おきにしか働く事ができなかった。朝6時から仕事が始まり、日の暮れるまで働いた。朝食の当番の人はもっと早く、3時、4時に起きた。麻挽きには力が要る。麻の渋が着ているものにかかるので、乾くとカパカパになり鎧を着ているようになるが、着替えがない。ドラム缶で沸かした湯を洗面器1杯ずつ配り、それで体を拭いていた。カイコ棚の寝床に潜り込むのは夜の11時を過ぎていた。

 1918年、年平均49.25ペソだった麻価格が下落し、1921年には17.14ペソにまで落ちた。1919年は不作と重なり、在留日本人は苦境に立たされた。不況と共に食料不足にもなっていたからだ。生活苦に陥った労働者と栽培業者との間で紛争が起きた。主に食糧供給をめぐり、一部の自営者が栽培業者の倉庫を襲い放火し、10余人が逮捕される事件が起きた。本土日本人は見切りをつけてダバオを離れる者が多かったが、沖縄県人はダバオに留まった。そのため、沖縄県人の方が本土日本人よりも多くいた時期があった。ダバオの不況は沖縄の最好況よりもはるかにいいからだ。太田興業の大城孝蔵は沖縄県出身だったので、大城の成功に続けと沖縄県人が次々とダバオに渡った。ある程度の蓄えができると国元に帰り、瓦屋根の家を建てた。沖縄では1日に1回しか食べられなかった米が、ダバオでは1日3回食べられた。移民の動機は、経済的理由だけでなく、徴兵忌避もあった。外国在住者は本人の申し出により、徴兵を免除されていたからだ。

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2010.12.03

マニラ麻栽培と日本人移民⑧日本人社会の発展

 麻挽きはハゴタンと呼ばれる木とナイフを組み合わせた簡単な農具による手挽きだった為、重労働で生産性が悪かった。そこで、大城孝蔵らは、何度も改良を重ね、発動力による動力ハゴタンを開発した。それまでは自営者1人で3ヘクタールの麻山経営が限界で、1日10キログラムしか挽けなかったのが、1時間に15キログラムを挽けるようになり、10ヘクタールの麻山経営が可能となった。1920年のことだった。

 マニラ麻価格の変動についていけない自営者は、価格決定力のある買い手の栽培会社に対して不満があった。そこで、1924年、に入札制度が導入され、毎週行われていた。売る側はそのときの最高価格で売れ、買う側は、必要な質、量を探し回らなくてすむ為に、 トラブル解消と経費節約以上の利点があった。

 自営者耕作法、動力ハゴタン、入札制度と、栽培から出荷まで合理化を進めていった結果、フィリピン全体ではマニラ麻の輸出量は頭打ちだが、ダバオからの産出量は増えていった。

ダバオでのマニラ麻産出量
1920年 18千メートルトン
1930年 49千メートルトン
1940年 87千メートルトン

 1926年にダバオ港が開港になり、マニラ、サンボアンガを経由しなくてもよくなった。日本郵船のダバオ寄航が決まり、大阪商船が定期便を運行するようになった。これにより、マニラ麻運搬の経費が削減になり、移民も旅費や日にちがかからなくなり、ダバオに行きやすくなった。日本からの妻子、嫁の呼寄せも増え、定住性が出てきた。男性ばかりの所に嫁が来ると、暖かさが出てきた。マニラ麻価格が下落しても、在留日本人は増えていった。1924年にダバオとミンタルに小学校が出来て、1933年から1937年までに毎年開校になり13校の設立となった。一つの地域でこれだけの日本人学校の数は満州国に次ぐものだ。小学校の行事が、スポーツや娯楽と共に、日本人の楽しみの一つになった。 

 在留日本人数
1925年 4562人
1930年 12,469人
1935年 13,535人
1939年 18,440人

1925年からマニラ麻価格が高騰し、ミンタル病院に勤めていたフィリピン人医師が農事会社を設立して公有地租借を始めた。その周辺に多数のフィリピン人が租借した。それに目をつけた日本人が獲得に乗り出した。日本人自営者は共同経営の形を取り参入してきた。

 ダバオでの日本人移民とキリスト教フィリピン人の移住とは共通するものがある。第1次世界大戦好況時に日本資本が流れ込み、日本人が増えていった時期には、フィリピン労働局の勧めもあり、セブを中心とした移住者が増えた。日本と異なるところは、家族同伴が多いことだ。日本人と同じように不況になると帰っていき、麻価格上昇と共に再び増えた。1930年代には定住するようになり、多くは日本人経営のマニラ麻園で働いていた。マニラ麻の栽培から出荷までの合理的なシステムに入っていけず、周辺に置かれていた。

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2010.12.02

マニラ麻栽培と日本人移民⑨対比摩擦

 在留日本人が増えると土地問題が再燃した。上院と下院の温度差、議員を選出した地元の思惑、高官が地位を利用して公有地租借に対する反発、日本人への脅威が恐怖に変わり、土地法違反の対処と、さまざまな問題が絡み合っている。在留日本人に対して恐怖心が出てきたのは1931年に満州事変が起きたからだ。「満州国」になぞらえて「ダバオ国」と呼ばれるようになった。アメリカでもダバオ在留日本人への警戒感が出てくるようになった。

 1935年6月20日、第1回租借取り消し命令が出された。取り消し194件、裁定魅了のため未認可8件、合計202件となった。翌年1月にマニラから木原副領事がダバオに来た。3月にダバオに行くが、その前に日本人代表と会いたいというケソン大統領の希望を伝えるのが目的だった。太田興業社長諸隈、古川拓殖社長古川、柴田領事がマニラに行き、フィリピン関係者と会見し、大統領訪問に備えた。

 ビコール地方を視察のケソン大統領が急遽予定を変更し、ダバオ行きが決まったと電報が入った。4月10日午前、ケソン大統領一行20名がダバオ港に到着し、ダバオを視察した。大統領はダバオ問題には慎重な姿勢だった。
 6月9日、再びケソン大統領一行がダバオを訪問した。大統領の他、副大統領、前下院議長、参謀総長、大統領技術顧問など、4月の訪問時とは全く顔ぶれが違っている。大統領の声明が発表された。「ダバオ問題は事実上存在しない」というものだった。租借取り消し命令は無効となった。
 2回目の訪問時に同行した大統領技術顧問はハリソンだ。1919年の土地法改正にあたり、ハリソンは修正案を提出し、ケソンが反対意見を論破した結果、日本人の提案より有利になったことがある。ケソンとハリソンは同じ考えを持っている。その考えとはいったい何なのか?

 4月、6月と続けてダバオを訪問し、6月の同行者の顔ぶれから、フィリピン内ではかなり強い日本人批判だった事が伺われる。 

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2010.12.01

マニラ麻栽培と日本人移民⑩麻栽培の終焉

 1941年7月26日、資産凍結令が出された。資産凍結令を出したコモンウエルス政府は、日本人の外国送金を一切禁止、個人の引き出し1千ペソ以内、フィリピン国立銀行ダバオ支店では、日本人の払い出し中止、9月にはマニラ麻の船賃の送金が個別許可、11月12日にはそれまで行われていたフィリピンに本館の貿易が凍結され、その10日後にはフィリピン国内の取引も停止になった。
 自営者の売上代金が支払えず、労働者への賃金支払いが出来ず、日本からの太田興業、古川拓殖への資金停止になった。世界恐慌以降資金繰りに苦しんでいた農事会社へ、利子の半額の補助をしていた台湾総督府からの補助金、移民事業に対しての拓務省からの補助金が受け取れなくなった。流通も停止した。在留日本人は資産を自由に使えず、フィリピンの管理下におかれた。日本人の資産報告が求められたが、自営者の土地法違反(公有地の又貸し)が明らかになるために、対応を検討した。

 このようなことになったのは、日本軍が仏領インドシナに介入したからだ。
 1931年に満州事変が起き、翌年に満州国が建設になった。1933年9月25日、「海軍の対支時局処理方針」が決定になり、海軍では「南進」が避けて通れない問題になった。1936年8月7日の5相会議と4相会議で「帝国外交方針」が決まり、南方問題が日本の国策構想に位置づけられた。1940年7月22日、「基本国策要綱」と「世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要綱」の原案が、陸軍省と参謀本部の中堅将校により作成され、閣議決定された。海軍だけのものだった「南進」が陸軍の加わる事により国策となり、10月25日に閣議決定された「対蘭印経済発展ノ為ノ施策」には、「大東亜共栄圏」と表現されている。

 1937年12月に、日本軍は南京を占領した。南京から重慶に移動した蒋介石の国民政府をイギリスとアメリカ等は支援を活発化した。その支援ルートを遮断する為に、日本軍は仏領インドシナに進出した。
  1941年、日本はタイと仏領インドシナとの国境紛争の調停役として進出しようとしていた。資源獲得のための蘭領東インドとの交渉は、オランダの抵抗で進まなかった。同年6月25日、大本営政府連絡会議では政策方針を決定し、仏領インドシナ南部に進出を開始した。それに対してアメリカ、イギリス、オランダが資産凍結令を出し、アメリカの措置を受けてフィリピンのコモンウエルス政府も追随した。

 資産凍結令が出された後もダバオの大多数の在留日本人は帰国しなかった。帰国しなかった理由とし、苦労をした土地から離れたくなかった事、国際結婚が多かったこと、帰国費用が用意できなかった事が考えられる。
 在留日本人は利益を国元に送金して帰国に備えていた。1927年のフィリピン全国の日本人の送金総額は1,004,724円で、未就労者も含めた一人当たりでは89円(178ペソ)になる。当時の労働者の日給は1ペソ前後だった事からほぼ1年分の賃金が日本に送金されていた事になる。

 1941年12月8日、日本軍は真珠湾とダバオのササ空港を爆撃し、太平洋戦争が始まった。在留日本人は収容所に入れられたが、ダバオに上陸した日本軍によって解放された。開放された日本人は軍の方針により、勤労奉仕、食糧増産に駆り出され、太田興業や古川拓殖の職員は軍と行動をともにした。資産凍結以降、マニラ麻園は荒れていく一方だった。1942年6月には生産はほぼなくなっていた。

 帰国を夢見て働いていたが、その夢が資産凍結令によって果たせなくなった。在留邦人がダバオで築き上げてきたもの全てが日本軍によって摘み取られてしまった。こうして日本人の手によるマニラ麻栽培は終わりを告げた。

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